「消えてしまいたい」という感情が消えない〜私の障害のハナシ2〜
↓前回の記事から読むとより分かりやすいと思います!
後編は私が精神的に病み始めてからの話と、個人的に今最も困っていることについて書き記していきます。
「もう俺なんかどうでもいいんだよ」
前の記事で、大学生になってから長生きすることに対する価値観が確立され、今もなおその考えに変わりはないことを述べました。
生きる理由に囚われず、今日この日を生きるという考えやそこまで深く考えずに何となく生きていれば、気が付いたら長生きしている、という考えもあると思います。そう言ってくださる方にも何人かお会いしました。どちらも価値観の1つであり、否定されるべきものではありません。ただ、私にとってはその考えは合わないな、と思っているだけです。
真に今この瞬間を生き続けようとしている人は、どれくらいいるのでしょうか。子供の頃から「将来の夢」を聞かれ続ける世界、時代の先取りや先を見据えることを求められる世界で、毎日それを維持できるのでしょうか。否が応でも未来を「考えさせられる」社会では、とてもできる気がしません。
何となく生きる。これも私にとっては難しいです。朝決まった時間に起きて出社し、仕事をこなして帰宅する。そんな毎日が約束されているならば、それでも良いかもしれません。しかし、今の私はそのような日々が約束されていない身。いつまた職を失ってもおかしくない立場にいるが故、何となくで生きられるとは思えないからです。
しかし、私の価値観は非常に危険なものであると思っています。このような考えはやがて、希死念慮へと繋がる可能性があるからです。
社会人時代末期、仕事の多忙さとミスが重なりまくり、上司に強く叱責されることが日常的となってしまいました。頭痛や食欲不振といった症状が現れた他、家に帰ったら電気も付けることなく、しばらく椅子に座ったまま動けないこともありました。その姿は、充電が切れてしまった人型ロボットと言うべきでしょうか。精神的に辛いと感じた私はそれから心療内科を受診することを決意し、結果うつ病と診断されました。
はじめは服薬しながら通勤という形をとっていましたが、症状は思うように改善されないし、相変わらず叱責され続けるし、発達障害を疑われて、症状一覧を見て思うところがあると言われたら早く治せとか言われるし…(この時点で見切りをつけるべきだった)、やがて苛立ちと現実逃避から、息を吸うように自傷行為に走るようになりました。この頃から日常的に「死」を考えるようになった気がします。階段から落ちたら死ねるかな、とか車や電車に轢かれたら、とか…実際に行動には移りませんでしたが、そのようなことを考える日が段々と増えていました。
自傷行為の方はというと、どんどんエスカレートしていき、使用していた道具がカッターから包丁に変わり、そして…。
腕だった分、まだ理性というか、生にしがみつこうとしていたのかもしれません。まぁとにかく感情がぐちゃぐちゃになっていました。本記事の見出しは、私がその時に発した言葉です。今でもしっかり覚えてしまっています。
この記事を読んでいる方で、自傷行為に及んでいる人、悩んでいる人が果たしているのだろうかと思うのですが、もしいた時の為に、ハッキリ申し上げます。
だんだん過激になっていき、最終的に取り返しがつかなくなるところまで進んでしまいます。だからそうなる前に医師等にしっかり相談して対処してもらった方が良いです。
…とは言うものの、大半の病院は話を聞いて終わりなのがまた辛いところ。深刻そうに話せば、少しは応じてもらえるのでしょうか。自傷行為という言葉を聞いた時点で危機感持った方がいいのが正直な気持ちです。でないと厳しいって話を戻しますが、結局上記の出来事により休職し、最終的に退職する運びとなりました。
誰かに相談しなかったのか、できなかったのか。そう思った方がいらっしゃるかもしれません。
まず主治医に相談し、服薬の量が増えましたが、症状は改善されないままでした。自傷行為のことを伝えても、あまり有効的なアドバイスはもらえませんでした。
カウンセラーにも伝えました。1週間の休職を勧められましたが、当時の私は「休職するくらいなら辞めたほうがいい。1度でも休職したら戻りづらくなって結局辞めることになるから」という考えだったので、休職をすっ飛ばして退職しようと、上の方へ辞める意向を伝えましたが翻意を促され、結局この時に辞めることは叶いませんでした。
他の人へは相談するには気まずいと感じていました。友人はもちろん、家族にも余計な心配は掛けたくないという気持ちが強かったので、何も言わないようにしていました。その結果、却ってもっと心配されることになりましたけどね。たはは…。
余談ですが、本来心理検査は自傷行為をした日の翌日を予定していました。それどころではないと警察等に言われて数か月先まで延期してしまったわけです。やる気満々だったんだけどな
死を希うな、生を希え
現在、私の精神状態は比較的安定していると感じています。それでもなお"死"が私を別世界へ連れて行こうとしてきます。後何年生きようかとか、どのような最期を迎えようかとか。今は楽しいと思えることがあるけれど、いずれ辛いと感じることが増えてくる。苦しむ前に終わりにしようとか、社会が私を真に必要としていない、除け者扱いし続けようとするのならば、大人しく消えてしまおうかと思わされます。
個人的に、このような希死念慮に対してどう向き合うべきかが最も大きな課題だと思っています。どれだけ心が充実していたとしても、ちょっとしたことが切っ掛けで一気にマイナス方向へ振り切り、頭の中に"死"というウイルスが入り込んできます。考える余裕を生まないように忙しなく生きたとしても、ネガティブになるような出来事が起きれば結局同じ結果になるし、何より忙しさで余計に心が疲弊してしまうリスクもあります。
そんな希死念慮に苛まれながらもなお、生きていられるのは「理由」ではなく、「望み」があるからなのかなと考えます。
自分の行動次第でより良い世界が望めるかもしれない、そのように思うことができているうちは、恐らく大丈夫です。
その望みが絶たれた時が、最も危ない瞬間で、その時が訪れることのないよう、日々を「生き抜かなければ」と思う今日この頃です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。