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湖畔篆刻閑話 #11「清朝最後の文人・呉昌碩」和田廣幸

ヘッダー画像:呉昌碩ごしょうせき書「西泠印社記」拓
運甓齋うんぺきさい蔵)

四半世紀にわたる中国での暮らしを経て、今は琵琶湖畔で暮らす篆刻家・書家の和田わだ廣幸ひろゆきさんが綴る随筆。第11回は、後世の書家に多大なる影響を与えた、清朝を代表する文人・呉昌碩ごしょうせきの魅力の源泉に、和田さんが迫ります。


 新春を迎えたここ琵琶湖畔。我が家の傍に佇む内湖には薄っすらと雪化粧をした比良山系の山並みが映り込み、晴れやかな青空とともに、まるで新しい一年の幕開けを寿ことほいでいるかのようです。
 
 さて、早いもので昨年の3月から始まったこの連載も、今回で11回目を迎えました。改めて最初から読み直してみると、まだまだ書いておきたい内容がいくつも思い浮かぶのですが、残すところ2回となってはそれらを絞り込むしかありません。そこで今回は私の敬愛する「清朝最後の文人」と称される呉昌碩ごしょうせきを取り上げたいと思います。

琵琶湖の内湖に映る新春の比良の山々

 昨年の2024年は呉昌碩生誕180年ということで、「呉昌碩の世界」と題し、東京国立博物館・朝倉彫塑館・書道博物館・兵庫県立美術館の4館がコラボして、呉昌碩関連の展覧会が開催されました。この他にも同時期に謙慎書道会の主催による「呉昌碩展」も開かれ、日本における根強い人気の高さを物語っていました。
 また、生前からその没後に至るまで、これほどまでに日本に強く影響を与えた近代中国の書画家・篆刻家は、彼をおいて他に見当たりません。

  呉昌碩は清の道光24年(1844)、旧暦の8月1日、今の浙江省孝豊こうほう彰呉しょうご村に生まれます。昨年、還暦を迎えた私とは、陰暦・陽暦の違いこそあれ、干支でいうところの〝甲辰こうしん〟の生まれで、私はちょうど呉昌碩の生誕120年後の同月同日に生まれたことになり、こうした巡りあわせにどうしても不思議な縁を感じてなりません。

 この孝豊県はもとはといえば安吉県に属しており、ゆえに彼の手になる作品の多くには「安吉呉俊卿しゅんけい」「安吉呉昌碩」とかんされています(民国元年・1912年、69歳の時に俊卿を廃し、昌碩を名とした)。その他に蒼石、苦鉄、缶廬ふろなどとも称しました。

 晩清から民国にかけて画家・書家・印人として活躍するとともに、詩集『缶廬詩』も刊行しています。生涯にわたり「石鼓文せっこぶん」の臨摹りんもに励み、彼が生み出した作品にはその古拙なる風韻と金石の奥深い味わいが加味され、これこそがまさに呉昌碩の際立った特徴といえるでしょう。

呉昌碩臨石鼓文 立軸
《日本藏吴昌硕金石书画精选》(西泠印社出版社)より転載
筆者が1986年に「上海文物商店・古玩分店」で入手した呉昌碩の書軸

 晩年上海に居住し、70歳の時に、一昨年建社120周年を迎えた「西泠印社」の初代社長に迎えられます。詩・書・画・印の「四絶」の体現者として、また「清朝最後の文人」として、中国をはじめ日本においても非常に高く評価されているのはご承知の通りです。民国16年(1927・昭和2年)11月6日歿、享年84歳。
 
 ここではお茶目な人懐っこい呉昌碩の逸話のいくつかを皆さんにご紹介したいと思います。
 
 先ずその一つ目としてご紹介したいのは、日下部くさかべ鳴鶴めいかく(1838-1922)が語った次の話です。時は明治24年(1891・日下部鳴鶴54歳、呉昌碩48歳)、鳴鶴は初めて清に渡り、兪曲園、呉大澂、楊峴、呉昌碩等と交遊します。当時上海で活躍していた日本人・岸田吟香(洋画家として名高い岸田劉生の父で「卵かけご飯を広めた人物」としても有名)の店に宿泊し、呉昌碩に会って印を依頼しました。

 少し長くなりますが、生き生きとしたやりとりをお伝えするために、ふたりの語りをそのまま引用したいと思います。

 呉昌碩に會って印を頼むと「早速、刻ってお届けする」といった。ところが、なかなか呉昌碩は姿をみせない。どうしたのかしらと思って訪ねると「實は、あの晩に寢床に入ってからフッと好い布置が頭に浮んだので、早速刻りにかかって明方までに仕上げた。私はあなたに喜んでもらおうと思って朝になるのを待ちかねて届けに行ったら岸田の店員があなたに會わせてくれないで突出した。二度とあんな失禮な家へは行かない」とプンプンして怒っていた。我輩は宿へ歸ると「いついつの朝、呉昌碩先生が私を訪ねてきたそうだが知らないか」ときいたが、「さあ、そういう方はお見えになりませんでした」という。すると、一人の店員が「その日の朝、店を開けたばかりのところへ、乞食みたいな汚い身なりの男が、いきなり飛びこんできたから突出してやりました。そういえば、その男は突出されながら鳴鶴先生先生とわめいていましたが、まさか乞食とお知り合いはなかろうと思ったのでお話ししませんでした」といった。
 鳴鶴は再び呉昌碩を訪ねて、その話をすると「ああ、そうでしたか。私は印が出來た嬉しさのあまり、そのまま馳けつけたので寢まきのままでした。いや、それは私のほうが惡かった」と笑い話になった。

中西慶爾『日下部鳴鶴伝』(木耳社、1984年)

 2つ目は元老・西園寺さいおんじ公望きんもち(1849-1940)と呉昌碩の初対面の時の模様です。子どものような呉昌碩の振る舞いに思わず笑ってしまいます。時は大正8年(1919)1月19日のこと(時に西園寺公望71歳、呉昌碩76歳)。当時、上海随一と謳われた日本料亭の六三園にて。和室にて陶庵公(西園寺公望)と呉昌碩が互いに正座をしながら、通訳を通して会話をしていました。

 『先生どうぞ御平に――』
 さつきから座りつけぬ正座でもじもじしてゐた呉翁は、その聲を俟ち、
『それでは失禮します』
 と言ふなり、公の前に二本の足をぬーつと出した。一座の人はハツと思つたが、既に功名富貴が眼中にない一小仙と化した呉翁である。王侯貴人の前も勿論憚る氣色は更にない。公は呉翁のその禮に嫻はざる脱俗的の氣性がひどく氣に入つてしまつた。無論お咎めなんか野暮な騒ぎどころでない。
『この方が樂でいゝ、あはゝゝゝゝ』

池田桃川『續上海百話』(日本堂、1922年)


 こんな茶目っ気たっぷりな呉昌碩、こうした人柄と相まって今もなお多くの人々を魅了しているのかも知れません。 

筆者宅の床の間にかかる呉昌碩の画

 清代には考証学の盛行をその背景に、金石資料、すなわち青銅器の銘文や碑刻の銘文等に以前にも増して人々の関心が集まり、書の世界では従来の王羲之を中心とした書法を学ぶ「帖学じょうがく派」とは別に、「碑学ひがく派」が興ります。呉昌碩も鄧石如・趙之謙をはじめとする書の世界における「碑学派」に属し、篆刻の世界においても彼らは同じ系譜に連なります。
  かつて趙之謙ちょうしけんは天賦の才能と努力の度合いを評して、自らを「天七人三」、鄧(石如)は「天四人六」、包世臣は「天三人七」、呉譲之は「天一人九」と評しました。

 趙之謙の理想はバランスの取れた「天五人五」だったようですが、これに倣って呉昌碩を評するならば、さて、一体どうでしょうか。私はやはり呉譲之に近かったのではないかと思うのです。呉昌碩はその残された作品を見れば分かるように、決して趙之謙のような天才肌の人間ではありませんでした。

 缶翁(呉昌碩)は自身の芸術を品等して、篆刻第一、書第二、画第三としていますが、篆刻はとりわけ視力や集中力、そして微妙な手先の動きなど、肉体が老化するにしたがって作品数は減少していきます。画も一般的には晩年になると新味を失い、観念的で形骸化したものが多くなってくるものです。

 晩年に到ってようやく完成を見る書は、〝絶筆〟などが存在するように、人生の最後の最後まで営むことができる芸術活動と言えるでしょう。缶翁の書を見るに、四十代、五十代の書は晩年のあの雄渾な作品と比較すると、随分と貧弱と言っても過言ではありません。総合的に見て缶翁は大器晩成型の芸術家だったと思うのです。
 
 先ほど述べた趙之謙は、まさに天才型の代表ともいえる人物で、没年が56歳ということもあり、50代で自身の芸術を完結させます。仮に呉昌碩が趙之謙と同じ寿命であったのなら、決して現在に残る偉大な芸術家とはなっていなかったに違いありません。遅咲きともいえる缶翁のような大先賢の存在があるからこそ、還暦を過ぎた愚鈍なる自分が、今もこうして希望と勇気を胸に抱きながら、日々の修練に邁進することができるのです。

 缶翁は82歳の時に人力車に乗って路面電車にぶつかってしまうという事故に遭遇し、それを機に急に弱ってしまったと伝えられます。しかし最晩年の84歳、奇跡的に回復し、まさに燃え尽きんとする蠟燭ろうそくの炎が、一瞬パッと大きく燃え上がるかのように、優品の数々を残すのです。
 
 先にも述べた何とも親しみを感じるその人柄、そして不断の修練を経てようやく花開き結実した彼の芸術――。こうした全てが、私を含め今もなお多くの人々を惹きつけて止まないのでしょう。こうした先賢達に思いを馳せながら、さあ、今日も励むとしましょうか。

※引用部における繰り返し符号の表記は一部改めました。



<次回は2月10日(月)掲載予定>

和田廣幸(わだ・ひろゆき)1964年、神奈川県生まれ。篆刻家、書家。あざな大卿たいけい。少年期に書と篆刻に魅了され、1994年、中国語を本格的に学ぶため北京の清華大学に留学。以来、北京で書法、篆刻に関する研究を重ねながら、国内外で数多くの作品を発表している。2018年から琵琶湖畔の古民家に居を移し、運甓齋うんぺきさい主、窮邃きゅうすい書屋しょおく主人と名乗り、日々制作に励む。2023年には台湾で自身初の個展「食金石力・養草木心―和田大卿書法篆刻展」を開催。また、書や篆刻に関する多くの文物を蒐集し、著作を出すなど書法・篆刻界をはじめ収蔵界でも広い人脈を築いてきた。2018年には、山東省濰坊いぼう市に自身の所蔵品509点を寄贈し、同市で新設された博物館にコレクションされている。
Instagram https://www.instagram.com/yunpizhai/

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