展覧会「法華経絵巻と千年の祈り」中之島香雪美術館/美術館ルポ・東晋平
ヘッダー画像:重要文化財《法華経絵巻》(部分)
香雪美術館蔵
朝日新聞創業者のコレクション
朝日新聞の創業にかかわった村山龍平は、実業界や政界で活躍しただけでなく、美術品の収集、美術雑誌『國華』の経営などに尽力したことでも知られる。
神戸市東灘区にある旧邸宅は重要文化財に指定され、1973年に村山の雅号「香雪」を冠した美術館として開館。村山のコレクションを保存・公開してきた。
開館45周年となる2018年、朝日新聞大阪本社のある中之島フェスティバルシティ(大阪市北区)に分館として中之島香雪美術館がオープンした。現在、神戸の香雪美術館は休館して改修工事に入っている。
堂島川と土佐堀川に囲まれた中之島。南北に貫く四ツ橋筋を挟んで高さ200メートルのツインタワーが聳え立つ。ラグジュアリーホテルのコンラッド大阪も入居するウエストタワーの4階に、中之島香雪美術館はある。
本展の中心作品である《法華経絵巻》は、法華経の内容を仮名交じりの詞とし、説かれた物語を絵画で視覚化したものだ。鎌倉時代中期(13世紀半ば)の制作と推定されている。
もとは法華経二十八品の全体を表す大部の絵巻だったと考えられているが、現存するのは「如来神力品」(以下「神力品」)と「嘱累品」に該当する部分のみ。すなわち、香雪美術館蔵(香雪本)、京都国立博物館蔵(京博本)、荏原 畠山美術館蔵(畠山本)の3巻である。
香雪本は村山龍平のコレクション。京博本は、やはり朝日新聞の社主として創業に関わった上野理一の旧蔵だった。
「経典の王」とされた法華経
法華経は紀元1世紀ごろに成立した代表的な大乗経典で、2000年にわたって幅広い地域で最も多くの言語に翻訳・信仰されてきたことから「経典の王」と称される。
なかでも5世紀初めに鳩摩羅什によって漢訳された『妙法蓮華経』は、隋唐時代の文化にも多大な影響を与えた。また隋唐の制度や文化を移入して中央集権国家の基盤を築いた日本でも、聖徳太子以来、とくに重要な経典として信仰され、数々の仏教芸術を生み出してきた。
法華経が日本を含む広い地域で重視され篤く信仰されてきたのはなぜか。
第一に、「一切衆生の成仏」を説いているからである。
それまでの大乗経典では、女性や悪人はもちろん、自身の解脱だけを求めて菩薩行を実践しない出家(二乗)も成仏できないとされていた。
また、凡夫が成仏するためには数え切れないほど生まれ変わって仏道修行を積む(歴劫修行)しかないとされていた。
これに対し、法華経は一切衆生が例外なく、もともと仏の生命を内在していると説く。その内在する仏性を開けば、歴劫修行を経ることなく凡夫のままで成仏できることを明かしたのである。
紫式部をはじめ平安期の宮廷女性らの信仰を集めたのも、法華経だけが「女人成仏」を説く希望の経典だったからだ。
第二は、ストーリーテリングの巧みさ。
法華経は全編を通して壮大な脚本のような構成になっている。「一切衆生が仏になれる」という未聞の法を理解させるために、エンターテインメント性あふれる宇宙的スケールの空間・時間軸で、さまざまな比喩やドラマが描かれている。
法華経の説法の場所も、「序品」から「見宝塔品」の途中までは、マガダ国の首都ラージャグリハ郊外に実在する霊鷲山が舞台だが、「見宝塔品」の途中からは虚空(宇宙空間)に移る。そして、「薬王菩薩本事品」から再び霊鷲山に戻るのである。
本展前期に出品された《釈迦霊鷲山説法図》は、その霊鷲山での法華経説法の場面。
一方、後期に出品される《法華経曼荼羅》には、虚空での説法の場面も描かれている。虚空に出現した多宝如来の巨大な宝塔のなかに釈迦と多宝が並座する。神通力によって会座の大衆も虚空に引き上げられ、十方世界から諸仏菩薩、諸天、魑魅魍魎まで十界の衆生が来集して、法華経の重要な説法が続く。
法華経が古くからアジア各地で支持された理由の第三は、多様なものを包摂し活かしていこうとする包摂性と普遍性にある。法華経にはインドの民間信仰の神々や、他民族由来の神々も仏菩薩として登場し、法華経受持者を守護すると誓願している。
交通と経済の発達に伴って人々の往来が進み、そのなかで法華経は普遍的な〝人類の宗教〟として成熟していった。
6世紀の中国で300年ぶりの統一国家となった隋朝の文帝と煬帝が天台大師に帰依したのも、聖徳太子がその隋朝の政策に倣ったのも、平等に人々の尊厳を認め、多様な価値を包摂して活かそうとする法華経思想を重視したからである。
その思想は、文帝の制定した官吏採用試験「科挙」や聖徳太子の「冠位十二階」などにも反映されている。
「釈尊の原点に還れ」
さて、本展はメインの《法華経絵巻》の魅力を伝えるために、よく配慮された巧みな展示構成になっている。
展示は6章立てになっており、イントロになる第1章では「法華経につづられた物語」として4種類の「法華経曼荼羅」が並ぶ(前期と後期で2種類ずつ)。いずれも法華経の各品に説かれた経意を、象徴的なビジュアルで示した鎌倉時代の絵曼荼羅である。
飛鳥・天平・奈良の時代に〝国家の宗教〟として受容されていた仏教は、平安期になると貴族社会を中心に〝個人の宗教〟としても受容されていく。さらに末法思想とともに、平安後期から鎌倉期には一般大衆へも布教が進んでいった。
そうしたなかで、経典の理解も文字からビジュアル重視へと変化を求められたのであろう。経意のポイントを描いた「法華経曼荼羅」も、あるいはこうした要請のなかで制作されたと思われる。
第2章は「法華一品経」。
法華経の重要なテーマは、釈迦滅後の〝仏なき時代〟に、誰がどのように衆生を救済するのかということにある。そこには法華経編纂者たちの「釈尊の原点に還れ」という思いがあった。
原始仏典を見ると、釈尊の在世では僧俗男女を問わず誰もが釈尊と同じように仏になれる存在だと考えられていた。
しかし、その滅後に形成されていった部派仏教では、仏は釈尊だけに限定され、人々は仏になることの叶わない存在だとされてしまう。「法」を求めつつ「仏」を遠ざけてしまったのである。
これに異議を唱えるかたちで生まれた大乗仏教では、阿弥陀や大日など超人的な仏が説かれる一方、今度は等身大の人間・釈尊が見失われていく。「仏」による救済が強調されつつも、人々が自ら「法」を求める側面が弱まっていった。
法華経は、この両者を止揚し、釈尊の原点に立ち還るために編纂された。インドに生まれた釈尊を、あくまで人間に即したまま娑婆世界に常住する「永遠の仏」と捉え直し、釈尊を成仏せしめたものとして「妙法」を説く。
その法華経に説かれた「妙法」を信受することで、人間・釈尊と同じように、未来においても誰もがいつでもブッダへの軌道に入ることができると考えたのである。
したがって法華経では、法華経という経典そのものを尊重し、世界に流布していくことが重視されている。他の経典にも増して、法華経の「受持」「読」「誦」「解説」「書写」の重要性が強調されているのだ。
この教えに従って、平安後期になると法華経二十八品の一品ずつを分担して書写し、各人と法華経を〝結縁〟させていく「一品経」の制作が支配階級のなかで流行した。これらの多くは、豪華な料紙に金銀泥や箔などで贅を凝らした装飾が施されている。
本展には、「慈光寺経」と呼ばれる国宝《法華一品経并開結》や、20世紀初めに嚴島神社の依頼で三井物産創業者の益田孝らが制作した《平家納経模本》(益田本)をはじめ、国内各地の美術館等が所蔵する国宝・重文の「法華一品経」の数々が展示されている。
滅後弘通へのバトンタッチ
第3章は「金銀の法華経世界」。
平安中期以降、紺紙(深い青色の料紙)に金銀泥で法華経を写経する「紺紙法華経」の制作が流行した。
本展では香雪美術館蔵の《法華経一品経 寿量品》はじめ、金剛峯寺や廣八幡宮に所蔵される見事な「紺紙法華経」が出品されている。
また、「紺紙法華経」の別バージョンともいうべき《法華経宝塔曼荼羅》も興味深い。これは、紺紙に九層ないし十層の宝塔が描かれているもので、よく見ると宝塔の輪郭線はすべて微細な金銀文字で書かれた法華経の経文だ。
宝塔は本来、仏の滅後にその生命の全体を留める(※1)もので、そこから転じて仏舎利を納めたストゥーパが仏教文化圏の各地にも建立された。ミャンマーのパゴダや日本の五重塔などもストゥーパである。
《法華経宝塔曼荼羅》もまた、仏=宝塔=法華経という捉え方から制作されたものであろう。法華経が仏像よりも経典を信仰の対象とするなかで、ある種の聖像の役割を持っていたのかもしれない。
こうした展示を経て、いよいよ第4章が「法華経絵巻」となる。香雪美術館蔵の「神力品」と、京都国立博物館蔵の「嘱累品」、さらに参考として畠山本(神力品と嘱累品)がパネルで展示されている。
法華経が「前霊鷲山会」「虚空会」「後霊鷲山会」の3つの場面構成であることは先述した。このうち「虚空会」では、在世より桁違いに困難や迫害の多い釈迦滅後の法華経流布を、いったい誰が担うのかが主要テーマとなる。会座に集った弥勒菩薩らが恐る恐る決意を述べるのだが、なぜか釈尊は制止する。
そのとき、大地の底から六万恒河沙という数の神々しい菩薩たちが虚空会に現れる。大地から涌出してきたので「地涌の菩薩」という。
弥勒らは動揺し、これほど多数の見知らぬ菩薩らを、釈尊は菩提樹下で成道してから、いったいどこで教化してきたのかと問う。これに対し釈尊は「如来寿量品」で、じつは自分は久遠の昔に成道した仏であり、以来、この娑婆世界を国土として衆生を教化し続けてきたと明かす。
釈尊が入滅するのは衆生に求道心を起こさせるための方便であり、「久遠の仏」としての釈尊は娑婆世界に常住して、この先も衆生が求めるならば、全宇宙のどこにでも現れるというのである。
虚空(宇宙空間)を説法の舞台として、このような宇宙に遍満する「久遠の仏」が明かされた後、「分別功徳品」から「常不軽菩薩品」まで、滅後に法華経を受持し説くことの意義と功徳が賞揚される。
そして、滅後悪世での困難な法華経弘通を上行菩薩を代表とする「地涌の菩薩」に付嘱するのが「神力品」。さらに、その他の菩薩たちにも力に応じて弘通するよう語りかけるのが「嘱累品」なのだ。
虚空会での説法は、この「神力品」「嘱累品」までで、十方の諸仏らもそれぞれの国土に還り、法華経の説法は次の「薬王菩薩本事品」から再び霊鷲山に戻る。
すなわち、現存する《法華経絵巻》は法華経全体のなかで虚空会の最終場面であり、未来における法華経流布が釈尊から「地涌の菩薩」らに託される、師弟のバトンタッチのシーンなのである。
《法華経絵巻》では各品の内容が主要場面を選んで絵画化され、経文が平易な日本語に意訳されて「詞」として添えられている。
興味深いのは、どの場面を絵画化するかにあたって、《法華経絵巻》と《法華経宝塔曼荼羅》などの金字宝塔曼荼羅諸本のあいだに類似が見られるという点である。
現時点では、誰がどのような意図で壮大な《法華経絵巻》を制作したのかは謎のまま。宝塔曼荼羅との近似に関しては本展の図録に論考が掲載されている。
第5章「法華経絵巻の絵のルーツ」は、《法華経絵巻》に代表される日本の法華経絵が、中国・南宋や朝鮮・高麗で制作された法華経と密接な関係にあることを示している。
高麗時代の1339年に制作された《法華経》(京都・妙顯寺蔵)は、精緻な見返し絵が添えられた紺紙金銀泥の美しい写経である。宋代の中国や高麗時代の朝鮮半島にあっても、法華経が熱心に信仰されていたことを示しており、これらが日本の法華経絵にも影響を与えていることがわかる。
最後の第6章は「法華経を説く時」。
法華経「如来寿量品」には、釈尊はインドにおいて一旦は入滅したが、実際には「久遠の仏」として常住しており、衆生が一心に仏を渇仰し、不惜身命で法華経を信受するとき、師弟はいつでも霊鷲山で出会うのであると説かれている。
つまり、法華経信仰における〝霊鷲山の説法〟とは過去の歴史的出来事ではない。仏が娑婆世界に常住する「久遠の仏」である以上、求道の衆生があれば〝霊鷲山の説法〟は今も未来も永遠に再現される。
人々は、そのためにも法華経という経典とその思想を後世に護り伝えようと考えた。藤原道長が法華経を書写して経筒に入れ、金峯山に埋納したことはよく知られている。
本展では,道長の埋納から1世紀後の嘉承3(1108)年、天台僧・賢芳らが関わった経筒や、20世紀になって制作された昭和荘厳経のうち《法華一品経》などが出品されている。
聖徳太子の時代から1500年にわたって、法華経は日本の仏教のみならず、和歌、物語、説話、美術、演劇、能謡、音楽、歌舞伎舞踊など、ジャンルを横断して文化全般に多大な影響をもたらし続けてきた。
近世初頭まで、法華経が宮廷人や文化人にとって必須の共通教養だったことは、今日あまり知られていない。
そのような現代に生きる私たちにとって、《法華経絵巻》を中心とした本展は、法華経世界への関心の導入としても意義深いものであると思う。
洗練された美術館の空間のなかで美しく蘇った《法華経絵巻》に見入りながら、釈尊の法華経の説法の会座に静かに連なる時間を過ごしてみたい。