書評『インドの台所』小林真樹著/文・菅井理恵
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台所には独特の魅力がある。「男子厨房に入らず」という言葉が表すように、ひと昔前の日本では、厨房=台所は〝男子たるもの〟が立ち入るべきではない女性の城で、台所にはどことなく私的な雰囲気が漂っていた。
祖母の台所には焼酎漬けの瓶がたくさん置いてあった。アルコールでゆがむ液のなかで、梅や山ブドウ、オトギリソウやマムシなどが何年もの間、漂っている。清潔だけれど年季の入った床に座り込み、瓶が並ぶ棚にもたれて曇りガラスを通る光をぼんやり見ていると、なぜか心地よく、ほっとしたものだった。
まれに取材先で台所に入れてもらうことがある。食器のセレクト、ストックしてある食材、調理したあとの匂い……。客間で話をしているだけでは分からなかった、その家の暮らしや台所主人(女性とは限らない)の性格、地域の食の文化まで見えてくる。
閉じながら広がる台所の世界。『インドの台所』は、その醍醐味を体感できる1冊だ。
著者の小林真樹さんは、インドが好きで何度も通っているうちに、「インド食器屋」をなりわいとするようになった。
紹介されている台所の多くは、小林さんが行き当りばったりで訪問先を見つけている。男女が果たす役割や仕事に分厚い壁が存在し、「現在でも、家庭で厨房に入り料理を作るのはまだまだ女性の役割とされているように見える」インド。日本人男性である小林さんが、女性の城である台所を見せてもらうという高いハードルをどのように越えていったのか――。
紀行文仕立てのエピソードは、小林さんの筆致やキャラクターも相まって、とにかく面白い。そして、取材の許可を得るまでの過程が描かれることで、台所を巡る旅は、私的な枠を越えて、その地域の人々のなりわいや歴史、風土まで広がっていく。
本書に登場する台所のラインナップを見てみよう。
庭に孔雀が舞い降り、巨大な冷蔵庫を6台も抱える大豪邸の台所、わずかな身の回り品しか持っていない路上生活者の台所、土を盛ったかまどがあるだけの先住民族マリア族の台所、狭小住宅に数十年住み続けるコルカタ華僑の台所、世界最大規模のスラム街に住むムスリム一家の台所……。
「北は夏でも朝晩寒いカシミールから、南は呼吸するだけで汗の出るタミルの最南部まで」インドを縦横無尽に駆け回り、驚くほど多様なバックグラウンドを持つ人たちの台所が紹介されている。
なかには、30年もインドに通い続ける小林さんでさえ、先入観を裏切られる台所が登場する。長年、インドやパキスタン、中国の間で帰属をめぐって対立し、きな臭い報道の多いカシミールの農村では、のどかな集落で代々農業を営むイスラム教徒の家庭に快く招き入れられ、調理器具や使い方を教えてもらった。
インドの大都市ムンバイでは、意を決して世界最大規模とも言われるスラム街に乗り込んだ。案内役を頼んだ地元の男性にドタキャンされるほどの場所で、親切な女の子に出会い、自宅の台所を見せてもらう。
台所は時代も映す。近年、世界で存在感を増す若手インド人IT技術者であるアミットさんは、地上5階建て・守衛つき物件の最上階に住んでいる。一見、デリバリーか家政婦に頼っているのかと思いきや、コロナ禍で自宅勤務が続いたことをきっかけに、気分転換に始めた料理にはまり「リアル台所ライフ」を楽しんでいるらしい。
インドのなかでも特に保守的な北インドには「チャパーティーを上手に焼けなければ嫁には行けない」という言葉があるらしい。まだまだ「男子厨房に入らず」の価値観が生きるインドでも、男性が主人の台所があることが嬉しかった。
少しズボラな女性同士、親近感を抱いた台所もある。首都デリーの巨大なマニ車の隣でバター茶店を営むジャウヤンさんは、「ウチは散らかってるんだよ……」と躊躇しつつも、自宅の台所に小林さんを招き入れた。
写真を見ると、確かに雑然とした室内が写っている。丁寧にも「雑然としたジャウヤンさんの居室」「台所もまた雑然としていた」とキャプションが付けてあって、ついつい、その辺にしてあげてください……と悶えてしまう。とりわけ冷凍庫には、一段を占拠してしまうほどの霜が付いていて、分かりますよ、忙しいと手が回りませんよね……と独り言を言いながら、急速にジャウヤンさんに共感していることに気付く。
人間の暮らしのあるところには、どこにでも食べものを生み出す「台所」がある。私的でありながら、他とつながる狭間の世界。ああ、だから、祖母の台所でほっとしたのだろうか。
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