私を私あらしめる性とは何か:ヘアゴムを失くさないように、無意識と格闘した個人史
今日、ふとヘアゴムについてのツイートをした。
髪をまとめるときに使っているヘアゴムだが、寝る前や少し外す時、すぐに失くしてしまう。失くしてしまうのは仕方がないから、じゃあどうやって失くさないようにしようか。そして、「外したら腕につける」という対策を取ることにした。日常的なふとした一コマに転がる「失くしもの対策」だ。
こんなツイートをしていて、ふと思い出したことがある。それは、私がこの日常的な「失くしもの対策」を一番最初に思いついたときの感動だ。
私がそれに気が付いたのは、中学1年生の頃だった。
不注意・衝動性が高い私の特性は、当然のことながらしょっちゅう忘れものや失くしものを引き起こしていた。小学生のとき、お道具箱を持っていくのを忘れて1学期が経ってしまったこと、傘を忘れないようにと十分に気を付けたら、学校に到着するまでランドセルを背負っていないことに気が付けなかったこと、体操服とか習字セットみたいな「特別な授業」でしか必要のないものは大体忘れていた。その時は、「少しひとよりもうっかりしてしまっているな」という程度に思っていた。けれど、その頻度と度合いは平均的なそれとは大きくずれていたように思う。
小学生最後の修学旅行でディズニーランドに行ったとき。私は、アトラクションの帰りに荷物をすべて失くしてしまった。一緒の班の友達に指摘された時には「いつからなくなっていた」のかすらも分からない状態だった。指摘されて初めて気が付いたのだから、それはそうだ。結局、私の班は後半の時間の多くを、私の荷物探しに付き合わされた。
「どうしてこんなにも失くしものが多いんだろう」
「どうしてこんな簡単なこともできないんだろう」
「どうしてうっかりして、周りの人たちに迷惑をかけてしまうんだろう」
小学校時代は環境に恵まれていたこともあり、こうしたことに目くじらを立てて怒られることはなかった。環境が変わったのは中学入学に伴ってだ。体育教師や部活顧問、生徒指導などの役職についた先生たちは、私の「うっかり」を許してくれるほど心が広くなかった。私の自尊心は大きく揺らいだ。
この頃だ。私は真剣に「どうしてこんなにも失くしものをしてしまうのか」考えた。考えていくとあることに気が付いた。「失くしているのは私ではない」ということだ。責任転嫁ではない。「失くす」ということは「失くしたことに気が付かない」から起こることだ。「気づいていない」のだから、「故意的に失くす」ことはできない。「失くしたと気付く」のは私だが、当の「失くしている本人」は「それに気づく私」ではない。
では、一体"それ"はだれ?
私のなかに棲む私あらざる人格:ダイモーンとの対話
ちょうど同時期に、私は中学の部活動で顧問教師と彼に気に入られようと頑張る同級生たちにイジメを受けていた。どうやら、私の不注意と衝動性、そして、そのことに対して詰問された際に発現する吃音が顧問教師の癪に障ったらしい。私は彼の執拗なターゲットにされた。
この頃私はだいぶ参っていた。「自分ではどうしようもできない」と思っていることを、「どうにかしたいと思っているのにどうにもならない」問題を、「お前のせいだ」と責める人がいて、彼が集団的に私に危害を加えてくるのだ。しかも、この顧問教師は、吃音で口が利けない私に「理由を話せ」と迫るくせに、私がいざどもりながらも理由を話したら「言い訳をするな」と叱責するのだ。もちろん、「どもってないでちゃんと喋れ」という言葉とともに。典型的なダブルバインド指令に私の精神は耐えられない寸前にまで至っていた。
毎日、理由もなく涙が決壊したり、悪夢を見たり、お風呂で目を瞑ると誰かが後ろに立って話しかけてこようとしてくるような感覚もあった。
ある日、散々泣いたあと。どうして泣いているのか自分でも分からないほど泣きじゃくり、涙も十分に枯れ果てた頃。目を抑えていた私の暗闇に、朧げなヒトガタが、私ならざる声をもって私に話しかけてきた。このヒトガタは、私がお風呂で話しかけられるような気がする際に感じた彼と同一人物であるかのようだった。彼と何を話したのかは覚えていない。けれど、彼との対話が、少なくとも私にとって重要な意味を持ち、彼と何か約束事か和解かを交わしたことは印象に残っている。そのすぐ後に、私は部活動を退部した。
この出来事は、ユング分析心理学における「シャドウ」の元型として理解することができる※。「シャドウ」とは、「その主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも常に、直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと」であり「隠され、抑圧され、ほとんどの部分が劣等で罪悪感を負った人格」である。そのシャドウの一部が、ダイモーンとして私の前に象徴的に立ち現れた。私は「私の内部に、私あらざる人格が棲んでいる事実」をこのとき明確に確認したのである。
この、「私の内部に、私あらざる人格が棲んでいる事実」を明確に確認したとき、そこから分離される形で「私の内部の、私あらしめる人格」も明確に立ち現れた。これには、「自我の再発見」とでもいうべき重要な契機が含まれていたのである。私の自己認識は第一に「私が私に関して決められることは実のところ、ずいぶんと少なく、むしろ私に関する多くのことは私の内に隠棲する私あらざるものが決めているのだ」ということを出発点とした。そして、彼(ら)と友好な関係を築くことが、自己をよりよく生きることなのだという考えに繋がる。
さて、そうすると私は自分自身の行動について、重要な枠組みを手に入れた。私は自分自身の行動の「全て」をコントロールできるのではない。私の意志に従ってコントロールできることは、私が意識し意志できることだけだ。つまり、「失くしもの対策」は「失くさないように気を付ける」ことではなく、「①失くしたことに気づきやすいようにする」か「②失くし方を先回り的につぶしておく」ことになる。前者は「意識に関する調整」で後者は「環境に関する調整」ということだ。どちらにしても「無意識」は私ではないので、コントロールすることはできない。
この考えは、私の自尊心、あるいは自己肯定感を保つうえで重要な支えとなった。「忘れてしまう」「失くしてしまう」「意識せずに動き回ってしまう」こうしたことはすべて「私のしたこと」ではない。もちろん、私は彼らの主人でもあるので、彼らの面倒は見なくてはならない。監督不行き届きは、責任問題だ。しかし、それは「監督不行き届き」の責任であり、「私の選択」の責任ではない。
高校受験の塾講師に向けられた無理解と、社会への失望感
私にとっては、十分に考え、明晰に辿り着いた「新しい常識」であり、当時は私自身が周りと比べて大きく変わっているとは全然思っていなかったので、「周りの人たちはもっと早くにこのことに気が付いていたから、うまく対処できていたんだ」と考えていた。「私もようやく少し、みんなの常識に追いついたぞ」と感じていたのだ。しかし、その期待は様々な場面で裏切られることとなった。
私に「どうしてこんな簡単なこともできないんだ」と叱責してくる周りの大人たちは、「それがいかに簡単でないことなのか」について全然理解していない様子だった。
私にとってこのことが象徴的に判明した出来事は、中学3年生の高校受験の時だった。私は、小学6年生頃から地元の大手学習塾に通い始めて、学校の成績は良好だった。テストの点数もおおむね良くできていて、高校受験が近づけば、いわゆる地元の公立進学校を受験するのが当たり前、という雰囲気だった。
私が特に躓いたのは、「四則演算」だ。証明問題や、文字式の問題、図形問題など、「解法に関する問題」は得意分野だったけれど、「計算に関する問題」は点でダメだった。そもそも、私は九九の七の段をいうこともできなかったし、一桁足す一桁の加算も、指を使わなければまったく自信がなかった。にもかかわらず、「解法に関する問題」は得意なばかりに、塾講師は「手計算は禁止する」とか「計算ミスは凡ミスで、これはゼロでなくてはならない」とか、滅茶苦茶なことを言ってくる。実際、「四則演算」が足枷になり、理数系科目が好きだったはずの私には、「数学の素養が全くない」という烙印が押された。それだけではない。塾講師はあろうことか、私の四則演算のミスを「凡ミスであり、凡ミスを犯すのは集中が足りないからであり、集中が足りないのは真剣に取り組んでいないからだ」と鼓舞のつもりでか叱責してきたのだ。
正直いって、そんな指摘は全く馬鹿馬鹿しいものだった。どうして、四則演算は得意なのに、「凡ミスは注意できないことによって起こるのだから、注意するよう意識することでは何も解決しない」という至極当たり前で、基本的なことも分からないのか。私は、この件をもって塾講師には全く失望したし、彼らが「真剣に」取り組むべきだという「高校受験」そのものもまったくもって馬鹿馬鹿しいくだらないものだと決めるけるに至った。その途端に、毎日夜遅くまで塾に通って、「偏差値の高い進学校に行って、いい大学を出れば将来の選択肢が広がる」という全くよくわからないストーリーに何の現実味も見いだせなくなり、サボりがちになった。中学3年生の夏だった。
「状況整理」と「気持ちの整理」という私の武器
高校受験は失敗した。
いや、外面上はそう見えたかもしれない。けれど、私にとっては大成功に終わった。このトリックを説明しよう。
私は、高校受験ゲームに全く失望してから、「そもそも何のために高校受験に精を出したいのか」という根本的な問題に取り掛かった。いつでもそうだ。悩んだら、基礎に立ち返る。当時の私にとってそれは、「高校生の段階で海外留学をしたいから」だった。海外留学に憧れたのはいろいろな要因があると思う。中学時代に私の孤独感を救ってくれたアニメ、特に『きんいろモザイク』の影響を受けて、イギリス留学をしたいと思っていたし、「新しい言語を学ぶ」というのは私にとってどの科目よりも面白く、英語はきちんとできるようになりたいと願っていた。あとは、陳腐だけれど「グローバル化が進むから英語は必須になるだろう」みたいな打算的な考えもあった。そして「大学で海外留学をするのはよく聞くけれど、高校留学、しかも長期は珍しそう」という好奇心もあった。何より、くだらない身の回りの社会から抜け出して、どこか遠くへ行きたかったのかもしれない。
いずれにしても、目標が定まった。第一志望は、地元トップの進学校から「国際留学に実績のある高校」に変わった。そこで、調べるとSGH(Super Global High-School)という文科省認定のグローバル推進高校があることを知り、これを第一志望とした。次に、併願として慣習的に申し込む第二志望の私立高校だ。これは、慣習としては地域ごとにどこどこの高校と決まっていて、学習塾が出願を斡旋していた。しかし、私は土壇場で、偏差値は何の対策をしなくても入れるほど低いが、普通科グローバルコースがあり、入学すれば自動的に1年間の留学が決定する私立校を第二志望にした。この時点で、勝負は決まっていたのである。なぜならば、第一志望に合格しても不合格でも、「海外留学をして英語を学ぶ」という目標は達成できるからだ。結果としては、第一志望はハードルが高すぎた。塾講師にも「素直に地元の進学校に出願してくれたら絶対受からせることができる」と何度も説得された。模試偏差値は65程度あったのに、偏差値30~40台の高校に進学したものだから、偏差値でしか見ていない人たちには「落ちぶれた」ように映っただろう。しかし、私は「海外留学」を勝ち取った。第一志望に不合格だったときは、目の前が真っ暗になるほどショックだったけど、すぐに切り替えて留学を楽しみにできた。
この高校受験の体験からは、2つの重要な私の性質が明らかになる。
まず1つ目は、「失くしもの対策」だ。つまり、あの時と同じように私は「コントロールできる要素とできない要素」を明確に切り分けて、後者がどう転ぼうとも、目標を達成できるように「意識に関する調整」(目標の明確化)と「環境に関する調整」(選択肢の調整)を行った。これは、私が何か重要な決断を下す際に、いつも取るアプローチだ。
もう一つは、私の「失望感」である。最後にこの話をして、今回のnoteは終えたい。
「失望感」を乗り越えて:私の「個性化」に伴う次なる課題について
私は、自分自身について「私が私に関して決められることは実のところ、ずいぶんと少なく、むしろ私に関する多くのことは私の内に隠棲する私あらざるものが決めているのだ」という気付きを得た。そして、この気付きによって、これまで自分自身に向けていた無理解、つまり「どうしてこんな簡単なこともできないんだろう」という疑問を解消した。そして、この気づきを「みんなはもうとっくのとうに、もっと幼少期の頃に、当たり前に身に着けていたに違いない。だから、『こんな簡単なこと』と言ってのけるのだ」と理解していた。しかし、この期待は何度も裏切られた。何度も何度も、私にとっての「新しい常識」が、他の人に全然共有されていないことを思い知らされた。彼らのことを別の星から来たんじゃないかと思ったことすらある。
もちろん、いまは理解している。私の「気づき」がみんな同じように気付くものではないということ。「私以外は私ではない」こと。みんなそれぞれ独自の心理的タイプを持っていること。だから、当時私に非難を浴びせてきた彼らには、彼らの信念や認識があり、それを十分に尊重するのであれば、彼らが私に非難を浴びせることの正当性を認めなくてはならないことも知っている。つもりだ。
これは、非常に「孤独な事実」であるし、ともすれば「みんなバラバラの星に住んでいる」ことを意味する。しかし、人間というのは、それでもコミュニケーションができる動物なのだ。それでも共生を築いてきた動物なのだ。しかし、どうやって?どうやって、この「孤独な事実」を受け止め、その上でもなお「私たちは繋がっている」ということができるのであろうか。
きっと、私が彼らの無理解に「失望感」を抱き、それだけでなく、学校生活を通じて常に生徒指導部の教員に反発し、同級生たちから孤立し、アニメと本とネットの世界に閉じこもってきたことの原因はここにある。
ユング分析心理学では、人生とは「個性化(individuation)の過程である」と説明される※。「個性化」とは、「人間が心理的な個体(individuum)、つまり独立した分割のできない統合体、あるいは『全体』となる過程」であり、「『個性』がわれわれの最も深層の、最後の、比較し難い独自性を包含するというかぎりにおいて、それは自分自身になるということも意味している。従って個性化を『自己自身になる』とか『自己実現』とかといいかえることもできる。」。つまり、「意識されていない領域も含めた自己の全体性を獲得する統合の道筋」である。
この考えに則ると、私は未だ、この「孤独な事実」を受け入れるだけの意識の準備が整っておらず、それゆえに以前ほどではないにしても他者や社会に対して「失望感」を抱いている。しかし、この「失望感」は実のところ、「(他者や社会などの)外に向けられている」のではなく、深い部分では自分自身に、内に向けられる「失望感」なのである。その意味において、私は「自分自身への失望感」つまり「彼らを理解することができていない」という失望感を、彼らに投影し、「彼らに理解されない」という構造に置き換えているわけだ。もちろん、「彼らを本当に理解する」ことはできない。なぜならば、「私以外は私ではなく、彼らは彼ら以外ではない」からだ。「孤独な事実」を乗り越え、「他者を本当に理解する」ことができないままに、「他者と繋がりを覚える」。このことができてはじめて、個性化は完成すると言える。まだまだ道のりは長いようだ。
にしても、どうして私はここまで、「無意識」の問題と格闘し続けているのだろうか。本来、「無意識」は語り得ない、知り得ない領域である。これは覆しがたい事実だ。しかし、それでいて「無意識」は紛れもなく私自身の一部であるし、私自身の「意識」の多くの部分をそうであるように決定している原因でもある。おそらく、この感覚を共有できない人たちにとっては、私の苦悩や記述に、「それは単なる思い込みではないのか」と突っ込みを入れたくなることだろう。しかし、最初の問題にも触れた通り、私にとって「意識されない自分が、自分の意図と関係なく凡ミスを連発する」ということは日常的な体験なのだ。そしてそのような体験をするたびに、私は「自分の中に棲む我ならざる存在」を意識せざるを得なくなる。常に、彼(ら)は私に対して猛烈なアピールをしてくるのだ。ならば仕方ない。自分の持つ社会的不利益に繋がる特性(不注意・衝動性)を受容する自分にとってのもっとも自然な方法が「それと向き合うこと」なのであれば、私はその戦場に向かわなければならない。たとえ、それが深淵を覗くことになったとしても。
※ユング分析心理学の概念として紹介している引用は、『ユング自伝 2 ―思い出・夢・思想―』(みすず書房、1973年、[著]C・G・ユング, [編]
アニエラ・ヤッフェ, [訳]河合隼雄, 藤繩昭)より巻末p263~276に記載されている「語彙」より引用しています。
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