宗教学は「宗教の本質」の夢を見るのか

前回の記事で
宗教学は「人の営み」としての「宗教」を扱う、と言いましたが、
宗教学の始まりは、神学の一種だったと私は思っています。

宗教学の祖は、いろいろ言われますが、
フリードリヒ・マックス・ミュラーと言われることがあります。

宗教学、とりわけ比較宗教学の祖として知られています。
比較宗教学とは何か。
文字通り、宗教を比較するわけです。
なぜ比較するのか。
もちろん、比較して、その差異や同じ部分から、
各宗教の特徴を知る、ということもありますが、
ミュラーは「宗教の本質」みたいなものが
諸宗教の比較を通して見えてこないか、と考えていたようです。

今でも多くの人が、
宗教の本質は一つで、その現れ方に違いがあるだけだ、
という主張をします。
その主張が正しいかどうかはさておき、
宗教の本質を探究することは、極めて宗教的な営み、
つまり宗教を自分事とする神学的な営みではないかと私は思います。
(ここで言う「神学」は、キリスト教に限らず、
イスラームや仏教などを含む、特定宗教に基礎を置く学問を言います)

現在の宗教学において、
「宗教の本質」が探究されることは、あまりありません。
先ほど言った通り、
「宗教の本質」を探究することが結局は「神学」になってしまう、
もっと言えば、人間の論理(学問)を超えたものになってしまうからです。

「宗教の本質」は、神の意志を現実世界に実現することだ、
と仮説を立てた(あるいは啓示や悟りを得た)として、
それを証明することは、現実世界においては困難です。
そもそも神の存在を証明できない(否定もできない)し、
さらにはその「意思」を確認する方法は、
少なくとも万人が納得する形(学問)ではありえません。

あるいは「宗教の本質」は、
予測不可能な未来に対して、人々に安心を与えるところにある、
と仮説を立てるとします。
これらは、アンケート調査やらで、きっと「証拠」が出てくるでしょう。
しかし、それは「宗教」の「一機能」であって、
「本質」なのかどうかは分かりません。
「本質」だ、と言い切るとすれば、その根拠は主観的にならざるを得ず、
それは啓示や直感を根拠とするのと変わらないものとなります。

したがって、「宗教の本質」を探究して、
「宗教の本質はこれだ!」と断言しても、
皆が賛成してくれることなんてありえない、主観的にならざるを得ない、
つまり、学問的な正当性を得られない、ということになります。

言い方が難しんですが、
「神学」が学問ではない、というわけではありません。
少なくとも、近代的な学問ではないということです。
「神学」の根拠は、聖典や啓示にありますから、
根拠づけが現代の諸学問とは少し違うということです。
(だから悪い、間違っているというわけではありません。)

神学は、特定の宗教系の大学でしか教えられておらず、
宗教学は日本全国の公立を含む大学で教えられています。
ということは、ある程度、客観的な根拠づけに基づいた学問、
と認識されているということだと思います。

というわけで、「宗教の本質」を探ることはなされなくなったわけですが、
その方法としての「比較宗教学」も最近では流行りません。
この辺もまたどこかで考えたいと思います。

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