世界をコントロールしたがる宗教と自分をコントロールしたがる私たち

Z世代のコンテンツ視聴について書かれた記事(上記)を読んで、
Z世代が何事も「コントロール」したがる、
ということについて興味がわきました。

宗教の一側面は「コントロール」にあります。
自他の幸福を祈るであれ、災害が起こらないよう求めるであれ、
そこには「自然や神をコントロールしよう/できる」
という思想があります。

神話において、自然現象のあれこれの起源が語られるのも、
理解可能なもの、コントロールできないまでも、
納得可能なものにしようという意図が見え隠れしています。

あるいは瞑想も
自己の感情や意識をコントロールが
ということが重要です。

人々を救う、様々な技法も、
一面では他人のコントロールかもしれません。
(極端な場合は、まさにマインドコントロールとなります。)

これら宗教で培われてきた「コントロール」の在り方は、
(その程度の高低はとりあえず置いておいて、)
「コントロールできないもの」を「コントロールできるようにする」
ということであり、
普通だったら「コントロールできない」という前提があります。

ところが、現代では、記事にもあるように、
感情も、時間も、すべて「コントロールできる」ように思えます。
「コントロールできない」ものを「コントロールできる」のは奇跡ですが、
「コントロールできる」はずのものを「コントロールできる」のは
当たり前です。
そうなると、「コントロールできるものはコントロールすべき」
という強迫観念が生まれてくるのも当然の帰結に思えます。

「コントロール」できそうなものはいくらでも思いつきます。
体重や勉強、仕事などなど。
つまりは自分の欲望や感情はコントロール可能、というわけです。
それらを「コントロール」できない人は「ダメな人」です。
だって「コントロールできる」はずのものが
「コントロールできない」からです。
「バカとブスは東大へ行け」とのたまう漫画がありますが、
あれも「コントロール」つまり自分を律することの正義が謳われています。
これらの感覚はZ世代だけでなく、
広く現代人に共有しているように私には思えます。

自己を「コントロール」する試みは、冒頭に示したように、
もちろん宗教の一側面です。
ただ、宗教は自己の「コントロールできなさ」もまた強調します。
祈りは「コントロールできる」という傲慢さと、
「コントロールできない」という謙虚さ、両方の側面があります。
こうした矛盾は論理的矛盾として退けてもいいですが、
何かそこに面白さを感じてしまいます。
(この「面白さ」を言語化しないと学問にならないわけで、
そこが私がいまいち学問の世界に入り込めない理由でもあるのですが。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?