宗教学ってなに②(補足というより言い訳)

前々回の記事で
「宗教学は他人事」
と書き、
前回の記事で
「宗教学は『宗教の本質』を探らなくなった」
と書いていますが、
間違ったことを書いたつもりはないんですが、いろいろと補足は必要です。

そもそもなぜ宗教学を勉強したい、なんて思うんでしょう。
私の場合、「自分事」でした。
正直に言うと、中二病の延長といいますか。
神とか悪魔とかかっこいい、という、例の病気です。
それをさらにこじらせて、
現代社会に生きにくさを感じて、
「俺を救ってくれる宗教があるはずだ
でも教団に入るのはめんどくさい」
というわけで、宗教学にたどり着くわけです(大間違い)。

私のような人間は稀ですが、
私のように宗教学が「自分事」になってしまう人は少なくありません。
それはそれでモチベーションにはなりますが、
研究としては行き詰まりがちです。

研究とは、自分の好きなことを追求する、
というイメージが一般的かもしれません。
しかし、実際には研究には「作法」や「流儀」があって、
マナーを学び、型を学んでいくことが基本となります。
評価されるためには、まずは評価基準を知る必要があります。
(天才は別かもしれませんが)

でも「自分事」で研究をする人は、評価基準は自分にあるので、
他の研究者たちに評価されない、ということが多い。
例えば、「俺を救ってくれる宗教」を探すことが研究だとは、
なかなか認めてもらえないわけです。
(もちろん、こんなテーマで博論を書いたわけではありません。。)
自分の研究が、これまでの研究と比べて、どういった位置にあるのか、
そしてどういう意味があって、何を新しく発見したのか、
というような「型」に嵌めないときちんと評価されません。
「俺を救ってくれる宗教」についての先行研究なんてあるはずもなく、
他の研究と比べようもない(つまりは社会性も公益性もない)わけで、
そうなると研究としては評価もできない、というわけです。

だから、自戒を込めて、
「宗教学は他人事」であるべきだと思います。
宗教(対象)に対して、ある程度の突き放し、というか客観視というか、
評価基準に合わせるためにも、
「他人事」のような「振り」をする必要があります。

もちろん、どこからが自分事で、どこからが他人事か
という判断は非常に難しいです。
しかし、他人から評価されたいと願うのであれば、
例え興味関心は「自分事」であったとしても、
「他人事」として研究を見せる必要があるわけです。

他方で、前々回の記事で「神学」は「自分事」と書きましたが、
神学も神学なりの作法や流儀があり、
そこで評価されるためには、「他人事」の「振り」は必要です。
ただその作法や流儀が他の学問とは、なかなか共有できません。
それで、他の学問からすれば、
「神学」は「自分事」(勝手な評価基準を持っている)と見えてしまう、
ということだと思っています。

もう一つ「宗教学は宗教の本質を探らない」というのも難しい。
宗教学を研究する時に、多くの人は
「宗教とは何か」という問題を考える(考えたいと思う)はずです。
特に私のように「自分事」と捉える人間はなおさらです。
だから、宗教学の研究者の中でも「本質」を考える人はいますし、
その営み自体を学問ではない、と切り捨てるわけではありません。
実証的な研究ばかりが学問ではありませんしね。

ただ、そうした「本質」の議論は、
宗教の教義のように、対立しがちです。
そして、その対立を解消する基準が見当たらない。
どちらが正しいという判断基準がない、というのは、
学問としては取り扱いづらいだろう、と個人的には思うわけです。
「自分事」と同じく、宗教の「本質」の議論は「評価」しづらいわけです。

とにかく、学問や研究というのは、
一人で行うものではなく、社会の中での営みで、
評価したりされたりするものです。
評価されるためには、ある程度の型にはまる必要があるわけで、
その型の一つが、宗教を「他人事」のように扱うことだったり、
宗教の「本質」については考えないことだったりする、というわけです。

とはいえ、研究や学問の在り方なんてころころ変わりますから、
一つの視座ということで。
対象との距離なんて、ずーっと議論されてますし、
誰も正解なんて知りませんしね。
以上、補足(言い訳)でした。

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