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忘れてしまう、
忘れてしまう。
瞼を上げて、オレンジ色の柔らかな光に照らされる天井を見上げる。そこに凹凸で描かれている幾何学模様を目だけで辿る。迷路みたいに、延々と続くその模様を。
腕を伸ばす。朝、目覚めたばかりの片腕は、膜のようなものにがんじがらめに包まれているように固い。その固さを感じるより先に、腕を伸ばす。肩と胸の間。肘。指先。何か苦いものがぎゅうぎゅうと詰まってるみたいに、自分の腕はぎこちなくて、これは私の腕だったろうかと思わず考えそうになって、慌てて訂正する。
“これは私の腕。”
解離性障害の当事者同士で会って話せるなら尋ねてみたい。
「一番自分から遠い、体のパーツはどこですか?」
私にとっては、“手”がそれ。
一番、他人のようにそこにある。解離が酷くなっている時に目にする機会が多くあるからだと思う。他のパーツは視界に入ってこず知覚すらできなくなっていても”手”は割といつも、そこにある。
だから、私はよく指輪をつける。その他大勢の手と区別がつくように。これは私の手だよ、と自分自身への目印として、つける。
ただし、近頃の私はとても幸福で、その幸福のおかげでこんなふうにも思えるようになった。
「手の形は、人それぞれ違う。この見慣れた手の形を、他と見間違うはずもないのに。」
安心していたらちゃんと分かる。“この手は自分のものか?”と疑う必要なんかない。そういう変化がゆっくりと私の内側に訪れている。
成人してからちょっとずつ、ちょっとずつ、時間をかけて大丈夫になってきて、なんていうのか…「まだ、もっと、大丈夫になれるのか」とすら思う。ここがゴールかなと思っても、まだ、回復は訪れる。つまりまだ、私のどこかは痛んでいる。ずっと共にある痛みであればもうそれは私の一部で、だからそれらと、これからもゆっくり時間をかけてお別れをしてゆくのだろう。
忘れてしまう。
解離性障害の、一番の困り事として残っているのがコレだなと思う。
今朝、自分の過去の記事を振り返って読んでいて、忘れていることに気がついた。父方の祖母が、亡くなっていることを。
忘れていた。分からなくなっていた。自分で繕った、刺し子仕様になった靴下を見て時々思ってた。“そういえば、おばぁ、どうしているんだっけ。”
あの記事を書いたのと同じはずの脳みそで。
書く、ということに、こだわるのは、こうだからだ。
書かなければ、私は自分の気持ちに錨を下ろせない。書かなければ、私の感情はどんどん押し流されて忘却の彼方へ去ってしまう。だから書かなければ、とそう思っていた。けれど、書いていても。忘れてしまう。こんなに見事に。失われてしまう。どうでも良いのとは違うのに。胸を掻き鳴らし自分に刻みつけるように書いた、それなのに。
忘れてしまうのか。
忘れてしまうことは長所にもなり得る。物語を書くことで、私はそう思えるようになった。だって、何度でも新鮮な気持ちで読み返せるから。
書くのは楽しい、推敲はもっと楽しい。昨夜書いたストーリーを、目覚めた朝に贈り物のように読む。大筋はちゃんと覚えている、「私の書いたものだ」と思う。けれどしばらく時を置くとそれらは“過去のもの”というよりはるか、全く違うところから現れたものだ。
あれだけの作品を生み出した谷川俊太郎さんが、自作を読むという趣旨の会でリクエストされた詩に「コレ僕の詩じゃないよ」と答えたという逸話を知って震えた。その自覚を持てるものですか?って。
自分のものだと言えるものがあるだろうか。どんなものなら、自分のものと言えるだろうか。この、脳みそで。
そんなもんだよ、と冷静に言うのも、もう違う。
まだこんなふうに?!と嘆くのも、違うんだ。
忘れてしまう。それは事実だ。私の脳みそからこぼれ落ちる。愛おしいものも、血を流すような想いで見た景色も、固く刻んだ誓いも。
「書いて、外側に出したら内側からは無くなってしまう」とか。「書けば、記憶の上書きになって刻みつけられる」とか。どちらも、成立しない。記憶は、そんな分かりやすい性質には収まってくれない。音や言葉や匂いやらに絡みつくくせに、この意識をすり抜けて消え去ってしまう。それを完全にコントロールすることは私にはとても難しい。とても、難しい。今、見えているソレ、確かに私のものであるソレ、明日の朝にはつながりが絶たれてしまうソレを、手繰り寄せ、繋ぎ合わせて、私の名前を書いておくより他に愛でる方法はない。
そう、私はもう。
こぼれ落ちてゆく記憶を惜しんだり恐れたりは、もうしたくない。愛でていたい。この身体を、ただ通過してゆく事実、ただ夢幻と同じに消えていってしまうソレらに恨み言ではなく愛を贈りたい。もう二度と私のものにはならないのなら。
だから書く。書いても消えてしまうと分かって、それでもこうして、愛の言葉の代わりに、書く。
忘れてしまう。
それを自覚するたびに、生きていたつもりの自分が死んでいたような気持ちになる。
忘れていたおばぁの死は、私の内側に(たぶん)二度やってきた。三度目は無いと、私には言えない。壊れているよなと思う。壊れたままでかまわないと、思う。直せはしないのなら直らなくていい。このまま生きていく。忘れて、忘れたことにも気づかないで、そんなことばっかりでそれでも、書いていれば失ったことに気づくことはできる。今日みたいに。
自分事から遠く離れたいつかの日、こんなに身悶えておばぁを見送った私がいた、と。
だからこれは私の標本なのだろ。
生きていた私の。いつか忘却の彼方へ流されてゆく私の大切な、一部たち。
覚えていてあげられなくてごめん。大事であるほど深く抉られるから優先的に忘れてゆく、こんな脳みそでごめん。
この先、この性質のせいで大切なものを壊してしまうかもしれない。そんな日が来ないとは言えない。いつかは来ると言う方が易しい。
でもこのまま行くね。
どうしようもないと知っているから、行くね。
忘れてしまっても、大切だということは真実だったと私は知っている。
行くね。
腕を伸ばす。肩と腕の繋ぎ目、胸筋のあたりはいつもものすごく気持ちよく伸びる。ここにそんなに負荷がかかっているのだろうか?と訝しみながら、体の望むままにゆったりと腕を回す。呼吸が自然と深くなって、風のように、新しい空気が身体中に入ってくる。
行こう。この体と。他には何も持って行けなくても、この体だけは最後まで私の呼吸と共に居てくれる。
行こう。