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会いに行く。
このnoteを読みに来てくれたあなたには、まるで関係のない人に。会いに、行く。
もしもあなたが、何度かここに読みに来てくれた人なら、時々登場したことのある私の、恩師に。
会いに行く。
大好きな先生は…今、“ネトウヨ”になっている。
でも私には、彼をそんな言葉で断じるつもりがない。
先生は。
彼は、人生を変えてくれた人だ。全世界に向かって毛を逆立てていた私に、人間と関わることの豊かさを教えてくれた人。生きることの可能性を、拓いてくれた人。
彼と出会っていなければ、その思い出がなければ、ハタチを迎えるまで保たずに死んでいた命だ。彼が私の魂の一番大切なところを、柔らかいまま奈落のフチから救い上げてくれたから、ここにいる。
だから、私は彼の隣に立ってみたいと願う。彼の言動が、いわゆる“ネトウヨ”そのものであることを認めてなお。
彼が見ているものを追ってみたいと願う。彼の言うことに倣うのではなく。彼が見ている世界を、彼がそれを選ぶ理由を、見たい。
イデオロギーで引き裂かれることは、この国でもそう珍しいことではなくなりつつあるだろうか?とりあえず、この島、この沖縄で生きていればそういうことは日常茶飯事だ。あまりにありふれた出来事なので、この島で私たちは正直さや誠実さと同等の重さを滲ませて、空気で会話する。
首の薄皮一枚、その最後の決定的な決裂を生まないように、息を潜めて話題をぼやかす。右と左に切り裂かれないように。反対賛成にラベル貼りされないように。問題なんか、まるでないように振る舞う。
実際、問題は無いのかもしれない。麻痺してゆくのは難しくない。
すぐそこにある不穏な存在は言語化されず、ハリーポッターの「名前を言ってはいけないあの人」そのままに透明になる。
生活するとはそんな感じだ、だから。
どんなふうに話題を透明にすればいいかは、心得ている。先生も、誰にでも信念を捲し立てるような人ではない。彼のイデオロギーは、そっと、宝物を手のひらにこぼすように表明される、いつも遠慮がちに。
つまり、それだけ彼にとって、繊細で、大事なことなのだろう。
彼にとって大事なことだと感じるから、私は彼の話を大切に聴く。どうしてなのだろう、と思いながら、聴く。私には弱音を、いいえこの世の誰にも弱音を吐くことはないのであろう彼にとって、ドナルド・トランプ氏は力強い励ましをくれる存在になっている。排除された経験を、その痛みを、彼はその語りの中にそっと偲ばせる。
逆境を戦い続ける“ヒーロー”について語ることで、彼は自分の痛みを私に聴かせることができるのかもしれない。
“外部に刃を向けるのは、それに見合うくらいの酷い嵐を知っているからだ。”
イデオロギーを湛えて語られる彼の言葉は、私にはそんなふうにも聞こえる。
酷い嵐を経験したことを証明するために、外部への攻撃手段は徹底的にエスカレートする一方だろう…その文脈で過去を語ってしまうなら。
手段についての正当性を語る彼の言葉を聞きながら、けれど、と私は思う。おそらく重要なのは…本当に重要なのは、今話題になっている“手段”の方じゃない。話し手の彼がかつて酷い嵐に傷ついた、その“事実”の方だ。
けれど先生はその事実単体を私に語る言葉を持っていない。男性で、歳上で、私を導いてきた立場にあって、同情されるなら死んだ方がマシだと思ってらっしゃる、そうやって生きてきたしそうやって生きてゆくことしか自分に許していない。
だから、彼には戦い続ける“ヒーロー”が必要なのかもしれない。傷の深さを証明するために。その救われなさを証明するために。
彼の読んできた本を譲り受け、あの世代が触れてきた言葉を眺める。その凍てついた厳しさと脈打つ生活の匂いに、時々空気が薄くなるように感じる。
彼は“ネトウヨ”でありながら、オンライン上の見えない誰かではない。私の目の前で生きている。汗をかき、美味しいものを食べれば喜び、汚れた食器を毎日洗う。
先生から語られる言葉は対話を求めるものではない。傷を告白する時、言葉はそうなるのだと、私はゆっくり、気づく。
綴じられた言葉は、ただ抱きとめてもらえるのを待って漂う。故に、敬愛する彼を相手に、私のここに書くような思考は、言葉にならない。(相手が聴く耳を持っていない時、私の言葉は何よりも弱くなる。)
ただ、彼の瞳を見つめながら、人生に深く刻まれた経験のひだが彼に何を選ばせるかを考える。人に慣れない獣のような彼が、「お前にとって価値があるなら」と元生徒である私を自宅に招き、本を手渡してくれることの意味を考える。
人間が大好きで、けれど人間に酷く裏切られもし、おそらくはそんな自分自身が誰よりも自分自身を裏切り、傷口を糊で塞ぐように文学を握りしめて生きている同胞だと思うからこそ私は彼のイデオロギーをなるべく自分の誠実な場所で受け取る。
わかりにくさの中に隠してしか大事なものを手渡せない、私たちはたぶんそういう、似たモノ同士なのだ。
傷ついてきた人間が、その痛みから本当にほどかれるのには何が必要なのだろう。
それさえあれば良いはずなのに、どうしてまっすぐにそれを求めることができないのだろう。
私を救い上げたのと同じ手でどこかの誰かの人生を排除してかまわないものとする、その複雑さの丸ごとを私は愛している。複雑に織り込まれ隠されたものの中に、本当を探したい。何が私の命を救ったのか。何があなたを孤独にするのか。
他の誰かであれば、諦めて終われるのだろう。うんざりして、断罪して。
あぁ、あなたも…あなたですら。“老害”になるのかぁ、って。
知識を上書きできずに、新しい価値観の台頭に自分の尊厳が脅かされると信じて、子孫にたしなめられることを拒み、孤立して、自分の見たい事だけでお城を作って?
他者を排斥する理由はいくらでも探せる、彼らを切り捨てる“価値”が自分にはある、そんなふうに、自分を高めて、そんなふうに、どんどん、自分を信じられなくなって?
……こんな言葉で先生を断罪する未来を見たのではなかった。
先生。あの日、あなたが見せてくれた世界は。
あなたが、見せてくれた。
人生には生きる価値がある、先生はそう言った。
言葉ではなかった。背中ですらなかった。存在だった。事実、先生を知ったから、私は自分の力で、自分の生きる喜びに辿り着けた。
ーーー見つけるのは、お前自身さ。
あの日、先生はそう言ってくれたのではなかったか。
今、自分から湧き出る物語を書く時、導き手にあたる全てのキャラクターに先生の影を見る。私の中には先生が、こんなにも根付いている。
知識を愛し、自分の心で考え、物事をカテゴリの枠から自由に解き放って、まっさらな目で向き合う。不正を厳しく批判して、その先にある本質を磨いて、ほら見えるだろう?と光らせて見せる。
ーーーほら、世界ってさ、…面白いだろ。
時代に巻かれて取ったポーズなどではなかった。キレイもキタナイもぜんぶ知っていて、その中に揺れる「ほんとう」に光を手向けてくれた人。あれは両手にすくった水に映る月だった。蓮の葉の上に揺れる水滴だった。この世の偉人の多くが、目にし、言葉を尽くして語り、その背を追う人間たちに次の光として遺してくれたもの。
私にそれを見せてくれたのは、先生だった。紛れもなく、勘違いなどではなく、たった一人先生が、先生そのものだったから。
できるはずがない。彼の言うこと、その表象だけを切り取って、断罪するなんて。
だって今も変わらず私には見える。紛れもない、先生だけのあの、「ほんとう」。
ちっっとも変わらずにそこにある。人間の内側にあって、キラキラと儚く、愛おしくて、水をやると喜ぶ花のような、抱きしめると微笑む子どものような、一番やわらかくてきれいなもの。先生が、そんなふうに人を見るその在り方を教えてくれたから、私は生きてこれた。
先生の中に、変わらぬあの光が見える。
どうして諦められようか。
どうして見放せようか。
どうして、責められようか。それは誤った考えだと笑えようか。年老いた知識層の哀れな末路だと言えようか。
そんなふうに終わらせるために、先生に言葉を教えてもらったわけじゃない。
そうなふうに他人を切るために、言葉を奮うわけがない。
他でもない、先生の教え子が。
イデオロギーなんかに何一つ奪わせるものか。変わらず先生は私の先生で、私の背を支え、私の言葉に理由をくれる。
理解できない他者として排除するのは簡単だ。簡単な方法を拒んで、私はその傍らに立っていたいと願う。彼の持っている世界が、今彼から語られる荒涼とした風景だけではないことを、私は知っている。
論語を愛する人だ。老子を、愛する人だ。三国志の本がいくつかある。歴史書がいくつかある。今の中国人はダメになったと平気で言う、その瞳が追っている“中国人”が誰なのかを私は考える。
アイロニーとウィットに満ちた人だ。いくつもの辞典。創作よりもエッセイ。彼の本棚には並ぶどちらかというと毒舌系の作家たち。それら作家の言葉の向こうに、私は読む。生徒たちに書かせた日誌に、いつもそっと添えられた先生の一言を。多種多様な生徒たちへ、突き放すのではなく、囲い込みもせず、あふれるものを確かに受けとめていたあの言葉たち。綺麗事ではなかった。正論ですらなかった。生きた言葉だった。嵐から守ってくれるような、親鳥の羽のような言葉だった。
少年漫画を片手に少女漫画家をこき下ろすクセに、竹内恵子の漫画は面白いとまぁあ偉そうに言う。竹内恵子に限るとはまた、と内心ほくそ笑みながら私は笑う。女性を、同じ人間として扱うことを学んでいない世代の人。けれど私を引き上げ、道を拓いてくれた人。
この複雑怪奇な迷路を歩こう。
先生。あなたへと向かって。
人間って本当にめちゃくちゃな生き物だ。だから恐ろしい、だからこそ愛おしい。
一番最初に、人間は信じるに足ると教えてくれたのはあなただ。だから私はずっと追いかけていける、いつまでも、追いかけてゆこう。
あなたの選択を支持するのでなく、あなたを変えるためではなく、あなたが本当にあなたらしく生きる瞬間がどんな瞬間なのかを見たい。叶うなら、その瞬間を共に見たい。何度でも。
もしもそんな瞬間ばかりで毎日を満たせたら、遠い国のドナルド・トランプのことはさておき自分自身のキレ味の良さを、ちょっとくらいは語ってくれるでしょう。アイロニーたっぷりに、自虐めいた言語センスで、その唯一無二の眼差しで。
会いに行く。
月に一度、先生のお宅にお邪魔する。
西部劇を愛し、男は辛いよを愛し、北の国からを愛し。愛した一つ一つを今、無造作を装いながら大切に、私に遺してゆこうとする人。映画を、漫画を、文学を、表現を、人間を愛している人の、丸まった背中を見る。
これが実の父親だったら、私の目に映る世界はもっとシンプルになっただろうか?命の複雑さが愛しくて仕方ないのは、私を愛してくれる人たちが皆、シンプルには説明できないご縁の人たちだからだろうか?
家族ではない人。けれど私の魂を救い上げてくれた人。
家族に殺され、他人のあなたに命を繋いでもらった私だから、この魂を込めて言う。自分自身を鼓舞するために。
そして他でもない、今ここまで読んでくださっている【あなた】に向けて、ここから言う。
私自身へ。そして【あなた】へ。
本当に大切にしてくれない家族なら、いつだってやめていい。
本当に愛されていると信じられる人に出会えたら、その関係性に名前なんかなくていい。その人の前で光る自分を、信じればいい。
心のままにその人を愛すればいい。そうやって生きた先に辿り着く世界が、命の内側を損なうことは絶対に無い。
私の心は、あなたにはその“価値”があると私に告げる。
私をここまで生かしてくれた光が、私に言う。
「さぁ。先生の隣で、何を見る?先生と、何を話す?」
ーーー見つけるのは、お前自身さ。
会いに行く。
選択の理由の全てを説明なんか、できない。でもきっと意味はある。彼がこうして、半ば強引に通い続ける私を拒まない意味が。そっと、分け与えるように溢されるイデオロギーの主張と、その奥に見える痛み。
きっと意味がある。そうやって手渡してくれるのならいくらでも。いくらでも聴こう。
こんなもんかもしれない、と思う。イデオロギーという怪物は、全て。家族関係の比喩で、価値観の比喩で、欲しかったものの比喩で、世界を憎み、愛する理由の、比喩で。
いくらでも聴かせて欲しいよ。その比喩の、痛みの奥にいるあなたを愛している。あなたがその身を浸している孤独と闘いだって、愛している。その痛みを生きる瞬間瞬間に、私を導いたあなたがいて、今のあなたがいるのだから。
愛したまま、この目に映るものを、私はどんなふうに先生にお返しできるだろうか。それを探しに、会いに行く。許してもらえる限り。先生が、私の傍にいてくれる間に。その比喩が、世界を踏みしだいてゆく音から、耳を塞がずに。