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助けてくれたもの(食べる、こと)
※全体にわたって「食べる」ことについて書きます。不安を感じた時には、引き返してくださいね…
料理を愛する人を、尊敬して止みません。
あなたは、…食べることはお好きですか。
この問い自体が、ある種の暴力性を持っていることを知っています。なのであまり無邪気には問いかけられないのですが、けれど。
ただ、問うことを恐れすぎずに書いてみます。
食べることは、お好きですか。
食べることはつらいです、そういう答えも返ってくるはずでしょう。
しんどさの代名詞でもあること、ですよね。
希死念慮との距離が近い私にとっては、正直にいうとそれが否めません。
どうして食べなければいけないのだろう、と、何度問いかけても足りない。
それなのに、ありとあらゆる困難さを置き去りにしてこの体は、食べるということを継続させようとする。「眠る」ことの、死と何処か似ている優しさとは違って、「生きる」ということの真ん中にありすぎます、「食べる」という行為は。
食べるということはだから、人によって千差万別の感覚があることかもしれません。考える暇もなく、体から要求されることですから。
体に入ってくる「情報」としての食べ物がしんどくて、カロリー◯◯◯…とかの栄養機能食品でなんとか食を回していく時期が私にはあります。感じることぜんぶがしんどい時にはとにかくそうやって、世界をひらぺったく、無味乾燥にして、やり過ごします。
けれど、だからこそ。
おいしいものを作るために、いろんな知恵と想いと時間とを費やして、料理を成し遂げるひとを…敬愛して止みません。
「食べる」ことは私にとっては楽なことではない。けれど、おいしいものがある世界だよ、って、その豊かさを広げてくれるのは、そういう食を愛してやまない『他者』の皆様に他ならないからです。
もしあなたが、食べること、料理することを愛していらっしゃるなら、私はこう言います。
ありがとう、私にできないこと、その広さ深さを、たくさんたくさん愛をこめて語ってくださる皆様。
もうひとくちも、自分の体になにひとつ入れたくない。
もし…あなたが、そういう時間を生きているのだとしたら、「食べる」ということは本来きっと一番つらいことなはずなのです。つらいと感じていて間違いじゃないはずです。
私は今日、だから、あくまでもかつて、そこを通ってきた人間として、こんなことを書いてみます。
水を飲む。トイレに行く。髪が伸びる。爪が伸びる。汗をかく。不快に思うそれらを、どうして繰り返さなければならないのだろうと思うぜんぶを、体に引っぱられながら、私は。続けています。
続けていていいんです。不快なまま。
食べることも、そういう繰り返しのひとつです。
繰り返して…良いんです。理由がないまま。不快なまま。不快でも、“まちがい”ではないから。
こんな無責任な言い方をするのは、この先のことを言葉にしておきたいからです。
「食べる」ことは、続いていきます。それが希望か絶望かを判断するのは後まわしにしてみませんか。
続いてゆくうち、食べてもかまわないと思える瞬間があるかもしれない。食べてもかまわないと思えるものと出会うかもしれない。そういう、ちょっとマシなものを選ぶことで、いつか。
あなたを助けてくれる、「なにか」に触れられるかも、しれない。
歯ぎれ悪くこんなことを書くのは、結局私もこの点についてはまだ、試行錯誤の只中にいるから、です。「食べる」ことはだから、自分の傷や、加害者そのものと向き合うことと同じくらい、ラスボス級の大変さなのです。だから。
食べることがつらいままでも、どうかあまり自分を責めないでください。今あなたが繰り返していること…生活を、朝と夜を繰り返していることそのものが、ものすごくパワーをつかうことなのですから。
考える暇もなく、答えを出すことも許されず、そんなふうにやってくるその時間を、ありとあらゆるものに頼ってやり過ごして、そうやって…そうやって。きっと今より『マシ』が少しずつ、増えてゆきます。
…なんの励ましにも、ならないけれど。
いつ、どの瞬間から、「食べること」が自分にとって恐ろしいことではなくなったのか、…明確には覚えていません。たぶん、劇的なことは何も無かった。
それくらい、食べることそのものは繰り返し繰り返しそこにあって、食べられない時間と食べられる時間、料理ができる時間とできない時間、それらの間をブランコのように揺れながら、ちょっとずつラクな方に、ちょっとずつ、食べることの幸福を自分のものだと思えるように、なってきたのだろうと…思います。
傷と困難の渦中にあった時に感じていた多くの不安が、幸福なことにこの世界への信頼へと覆っていったのと同じように…いろんなものを知り、いろんなことを経てゆくうち、「食べる」ことを自分の味方にできるように、なっていました。
私を助けてくれたのはたとえば、こういう食べ物たちです。
伝えられない片想いの相手がいつも飲んでいたミルクティーのロング缶。
真夜中のドライブスルー、姉とわけっこしたアップルパイ。
「この夜が永遠に続けば良い」と願いながら舐めたアイスクリーム。
大好きな友人が心底楽しそうに作ってくれたカルボナーラ。
「煮立たせないのがコツですよ」赤子をあやすみたいにそう言う人の隣で、できあがるのを見守った筑前煮。
擦り切れるほど働いたあと食べる、仕出し弁当。
唐突にこの世を去ってしまった大好きな叔父が、冷蔵庫に遺してくれたブリ大根。
職場の先輩がそっと置いていってくれた缶コーヒー。
熱にうかされた体でようやっと飲み落とす、スパイスの効いたお茶…。
恐ろしいはずの「食べること」をのなかにも、愛おしい愛おしい、大切なものが混じっていて、時を止めることは叶わなくても「食べること」で、消えてゆく何かにもがいてみせた。
「食べること」にはそんな力もありました。
だから、「食べること」をゆるせる瞬間を、そのカケラを、つぎはぎ継ぎはぎ、繰り返して。
自分をさいなむ事であり、最短の距離で癒せる方法でもある「食べる」瞬間を、迷ういとまもなくただ、ただ、繰り返して。
そうするうちきっとその継ぎはぎはいつか、ちゃんとあなたの体を包むくらいの大きさになれるでしょう。
何が好きで何が嫌いか、何を食べたくて何を食べたくないか、選べるようになるでしょう。
選べることそのものが、生きることをラクにしていく、と、きっとあなたはそうやって見つけることができるでしょう。いつか、きっと、いつか。
今、そう感じられなくても。
食べることは、お好きですか。
もしも、「はい」とおっしゃってくださるなら。
私は、あなたがきっといっぱい知ってらっしゃるおいしいものについて、たくさんたくさん話を聞かせてほしいです。
もしも、「いいえ」とおっしゃってくださるなら。
私は、あなたが、それでも続く食べるということと…どんなふうにそれとここまでつきあって、こんなに遠くまで来たのかを、聞かせてほしいと願います。
食べること、食べ続けることは、大変なことです。恐ろしいことです。けれど、ただ自分のためだけのよろこびも、そこを通ってきっと見つけることができる。
心と体がチグハグなままで、そのままでも、ふっと力を抜ける一瞬をくれるかもしれない。
私は、こんなことをこんなふうに書きながら、やっぱり直接の助けにはなにもなれないまま、そんな一瞬があなたにあることを願っています。
今日も朝ごはんを食べ、昼ごはんを食べ、けれど夕ごはんを食べる気力と時間は足りなくなっちゃったな、と呟く自分を眺めながら。
そんなもんです。そんな感じで…。たまに休みながら。…繰り返して、繰り返していって…みませんか。