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言葉だけが歩き回って、やわらかさをブルトーザーみたいに引き潰していった

とある特別企画、詩人と哲学者の対談をオンラインで視聴した。期待が高すぎたな、と片付けようとして…それだけでは終われない不全感の内側に、もっと根本的なこと、どうして自分がアカデミックな場で壊れてしまったのかという答えが出ないと思っていた問いに、パチリとパーツがハマった気がした。書いておく。
ほぼひとりごとです。

言語に身体性がないの。
体が放って置かれている。ただの肉の塊みたいに。とても居心地が悪そうで、けれど誰もそれを口にはしない。字面だけがツルツルと空中を滑り、その実、そこでは何も起こっていない。というか何も起こりようがない。
声の質も、ボリュームも、恐ろしくコントロールされずに、まるで自分の声すら聴こえていないかように無造作に投げ出されてゆく。
この無法な空間で何を扱ってみせようというのか、と思った。対話が生まれる余地はそこになく、味のしないガムみたいな会話を聴く。
耳では聞いた。心は耐えられなかった。これを、真面目に、やっているのだ。東京で。東京に本拠地を置く方々が。有料で。

近頃、心と体に寸分の誤差なくそこに居てくれる人たちばかり見ていた、だから。指先を切ったような居心地の悪さがずっとあった。

そうして、思い出す。
かつて通ったアカデミックな場では、多くの人物がああいうふるまいで存在していた。何も珍しくはなかった。前職も、そうだった。今いる職場は肉体労働もそして感情労働も、知的労働もフルに行う分野だから、その傾向が少ないだけだ。

そりゃ病気になるわ、私。

嘘でしかない、建前でしか。不信感をまとった体は不信感を招いて、無自覚な嘘が、もっともらしい響きでヒラヒラと薄っぺらく引き延ばされてゆく。交わす会話のやりとりに満遍なく混じるイツワリに、お互いに触れるのもイヤって感じで虚に笑い声が上がって、わずかなリアルもろとも空中に放り出される。
社会的な仕草のグラデーション、嘘も建前もそれの一部であることは私も認めるけれど、でもあの「思考のてっぺんにある“何か”を、言葉にしてはいけない」という空間性は、そういった社会的な戯れですら、ない。戯れる余地すらない。
アカデミックヒエラルキーなのか、男女のジェンダーギャップなのか、理由までは見えないけれど、明らかにあの空間には自由に呼吸をさせない「何か」が働いていて、だから語り手の身体は無造作に、生き餌の様に投げ出されたままで、安全性を担保されないまま口だけが人形のように動き回る。

…見るに耐えられない。視聴しているだけでそんな状態になる自分自身が、『何を』まなざしているか、『何に』光を見るか、わかった気がする。

つまり今、望んだ場所にいる。
愛してやまないものと…心が体から流れでてしまっても、そのぶんあたたかい血液のように新しいパワーをくださるものと、出逢えた。

誰に向けて話したいのか、話すことで何をしたいのか、もっと輪郭が見えてきそうな気がする。自分の目に見えているもの、感じていることを信頼してみる…うぉおマジかこれを私が言うのか。
でもやってみる。

ちょっとだけ秋めいて、けれどぬるい風が吹く。
他者に触れてみなければわからないね、新しい景色は。

あの頃の私が言葉にできなかったこと。こうして迎えてあげることができて、うれしいよ。

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