見出し画像

歩幅が違っても、一緒に歩きたい

育休から復職し、半年ほどが経過した。

育休中は、24時間娘と一緒に過ごしていたのが、お互いにフルタイム(娘は約10時間、私は休憩1時間をふくむ9時間)で保育園や仕事に行くようになると、当然これまでのように2人で過ごす時間は減る。


いやいや。
子どもと過ごすのに大切なのは、時間の長さじゃない。

濃さ、なんだ!

一緒にいるときの向き合い方が大事!


何に刷り込まれたのか、私の中で「(育児は)量より質」がインプットされていた。


さらには「自分も楽しみたい!」欲も相まって。



結果。
復職してから、毎週のように週末は娘とお出かけをする日々。


育休中も、「良さそう」と思った子ども向けのイベントや有料の屋内施設などには積極的に出かけていたので、それを復職したからと言って、スッパリやめてしまうのも・・・という気持ちもあった。


金曜の夜には、「明日はどこ行こうかなー」とワクワクしながら、娘とのお出かけ先を探すのも楽しい。

楽しいのだが、ある日ふと。


なんだか消耗されていくような感覚になった。

何かに追い立てられているような不安。

夫が仕事でいない休日、娘と2人、家で閉じこもっていることに閉塞感というか罪悪感というか。


「娘との休日」もまるで仕事のタスクのように、「どうこなすか」の目線で考えてしまっている。


「子どもと向き合う」「大事な時間を過ごす」って、どういうふうにすれば良いんだろう。

お金も体力もすり減らして。

それは充実した時間の過ごし方になっているんだろうか。


私だけの自己満足なのでは。


「自己満足」

そう思い至り、ゾッとした。


復職したら、娘がいつも笑顔でいられることを最優先でいよう、と思っていたのに。

会社にも誰にも引きずられない働き方をしよう。

そう思っていたのに。

私自身が、娘の時間を搾取してしまっている。


高価なおもちゃを次々と買い与えるのだけが正解じゃない、とは断言できるのに、「体験は何にも代えがたい」という言葉には反論できない。

娘がたとえ覚えていなくても、「一緒に〇〇に行った」「一緒に△△をした」みたいな経験は、かならず彼女の感性や価値観のベースに組み込まれるはずだと信じてしまっている。


本当にそうなのか。
そして、それはお金をかけなければ出来ないことなのか。


たとえば。

朝、洗濯物を干す私の横で、シャボン玉を吹く娘は、それはそれは楽しそうにしている。

「まま、やるー!(ママもやってー)」と、笑って私にもシャボン玉を吹かせようとする。


飼い犬と一緒に公園まで散歩に行くのも、「やる!」と自分でリードを持ちたがる娘。

公園の入り口まで、大人の足ならたった数分の距離をダラダラと十数分かけて歩く。


「ありんこ!」

「ひこーき!」

あちこちに何かを見つけては立ち止まる。

ただの道路にも、いつもの空にも、娘にとっては発見がいっぱい。


毎日が新しい日々。
ただの日常生活の端々に、キラキラしたものを見つけられる感性。

そういうことに気づける価値観は、電車に乗って遠出して、にぎやかな街でしか得られないわけじゃない。


だけど。

あえて言うなら、休日のゆっくりと過ごす時間にしか、見つけられないものかもしれない。


休日の午後15時。

娘とスーパーへ買い物に出かけた。

買ったのは、焼き芋(娘が「おいも!」と言うので)、プルーン(朝食に必須)、米粉のホットケーキミックス(これでケーキとか焼くと結構おいしい)、春巻きの皮。


スーパーの前のベンチで、一緒に焼き芋を食べて。

帰ってきてから、夕ごはんの準備。


春巻きの皮を広げていたら、娘が「だっこ、だっこ」とやってくる。

左手で娘を抱きあげ、右手で春巻きの皮に、つくっておいた餡(前日のカボチャシチューをリメイクしたもの)をのせて巻く。


いや、さすがにこれは・・と娘を椅子に座らせて、横で見ててもらうことに。

意外にも大人しく座ったな、と思ったら。

娘が手を伸ばして「やりたい!」という仕草。


春巻きの皮を娘の目の前に置き、餡をスプーンでちょんと乗せてみた。

すると、娘は、見様見真似でくるくると巻く。

セオリー通りの折り方じゃない。

巻き寿司のように巻いたり、シュウマイのように絞った仕上げにしたり。

あっという間に10枚分の春巻きができた。

娘はとても満足そう。


そのまま横に並んで、一緒に揚げてみた。


娘が巻いた春巻きは、端っこを折っていないので、キッチンばさみでカットし、その端っこの皮だけの部分を先に油に入れた。


薄いので、あっという間にキツネ色に。

揚がるのもすぐだけど、冷めるのもすぐ。


餡入りの春巻きを次々揚げていきながら、冷めた端っこを娘にあげてみた。


ぱりぱり。
軽い音。
にこーっと笑う娘。


「おいちぃ」
「あまーい」

嬉しそうな声。


そうか。
こんなことで良いのかもな。


確かに、「量より質」だと思う。
私自身が楽しいことも大切だと思うし、娘の記憶に残らなくても、「一緒に何かを体験する」ことは、何かしら娘にとってポジティブな効果があるのだろう。


でもそれは。

「こちらがリードしていく」と気張るのではなく。


娘と(もちろん夫も)、毎日の暮らしを共に、快適にしていく。


そういうつもりで、過ごしていけば良いのかもしれない。


いいなと思ったら応援しよう!