陶芸家 島武己さんの話
2024年8月27日、沖縄の陶芸家の島武己さんの四十九日の法要に参列した。
(弔辞代わりに島さんの思い出話を記す。)
4月15日に会った時は元気だったのに、7月10日に光に還った島さん。
7月25日の沖縄の赤田さんからLINEで届いた新聞の訃報記事。その画像だけだとリアリティがなかったけど、沖縄県本部町浄善寺の祭壇の島さんの写真や、親戚の方と話をして四十九日を実感した。本当だったんだ。。
今年1月ごろに島さん宅の固定電話が通じなくなってたから、入院してるから止めたのか、胸騒ぎがして4月15日に東京から沖縄県本部町の島さんの家兼工房まで直接行って会えたのが最後になった。多分、生前の島さんと最後に写真を撮ったのは僕だと思う。
6月頭にも沖縄旅行で国頭村に行ったので、その帰りに無理すれば島さんのとこへ行けたけど、大雨で夜9時過ぎに暗い山道をレンタカーで行くことになるので、4月に元気だったからと行かなかった。無理してでも行っておけばという気持ちが今もある。
だから、7月25日に訃報記事がスマホに届いて、7月10日逝去と知ってせめて四十九日には行こうと思った。仏教だけでなく、世界的にも四十九日までは魂は地上にいるというから。
8/27.島さんと面識のある名護市の画家の先生に車で乗せてもらって、四十九日の会場の浄善寺に来た。お酒とお花をお供えして、島さんと撮った写真を親戚に渡した。
島さんとは2018年1月に沖縄の観光財団(沖縄観光コンベンションビューロー)の仕事で、短編映画の撮影で工房で一週間ロケさせてもらった時に知り合った事を説明して、親族でもないのに参列させてもらった。
【人間国宝を辞退】
島さんのいとこで喪主の浄善寺の前住職(島武夫さん)から、
「武己さんは人間国宝の話が来た時、考えさせてくれといって、一ヶ月して推薦者が回答を聞きに来たら、自分の師匠がまだなってないからと辞退してるんだよ。順番が違うと、師匠を追い越すことになるから、そんなことは人としてできないから辞退すると断ったんだよ。師匠が先に人間国宝になった後なら受けますと」
と聞いた。
マジかい、島さん。。でも、島さんらしいか。
人間国宝という名誉よりも自分の信念というか、師匠に顔向けできない生き方はしたくないっていうのは、なんとなくだけど島さんらしいと思う。
ただ、色々な手続きで苦労している前住職は、「人間国宝になってくれてたら手続きが楽だったのに」と話していた。
登り窯の工房「阿弥陀堂古窯」の落成式には、テレビの取材や崔洋一監督が来て、交友関係が広かったとか、昔のアルバムを見せてもらい、生前の島さんの話を聞く。
【作品の価値と買い付け】
島さんは、作品の値段は自分ではつけなかったとか、島さん本人だと「あなたがいくらだと思う値段を決めて買ってください」と言うので、本人から直接買うのではなく、美術館などの価値がわかる人(目利き)が来て査定して全部買い取ってから、欲しい人は美術館から買うことにしたそうだ。
実際、島さんは年に一回しか窯で作品焼かないけど、焼く前から全部買い手が決まっているとのことだった。高級マンションみたいだな。マンションだと確実に建物は予定通りできるが、焼き物は失敗も当然出るし、焼き上がりにも差がある。それでも、買い手が決まっているという、すごい話だった。
僕も島さんが人間国宝候補にもなった有名な陶芸家とは知らずに(四十九日で初めて知った)、売り上げに貢献しようと沖縄の仕事が終わって東京に引っ越す前に僕でも買える作品ありますか?と聞いたことがあった。
島さんは、値段は言わずに
「僕の作品は、美術館とか博物館が買い付けに来るから」
と暗に僕の小遣いでは買えないと言ってくれたので、気を使ってお客にならなくてもいいんだと納得した(笑)。直接売ってないって意味もあったと四十九日で知った。
その時も一切怒ったりも笑ったりもせず、そんな気を回さなくていいって感じで話してくれた。
島さん本人が自分のことをあまり語らないし、僕も島さんの人柄が好きで話をするのが楽しかったから何年も遊びに行ってたが、作品の作り方(作陶)は説明しても自分の作品の価値については話をしなかった。自慢をしたことがない人だった。
島さんは、「頼まれたら民芸品(食器など)も作るけど、つまらないよね」と、魂や御嶽をテーマにした作品が有名だった。
作品集を島さんから一冊もらって、作品見て驚いた。陶芸でこんな物があるのかと思った。
島さんから、「日本の陶芸家50人」という陶芸家紹介の本を見せてもらい、沖縄では島さんだけ選ばれていたので、沖縄で一番の陶芸家と知った。島さんの師匠はその本では選ばれてなかったと四十九日で聞いた。
島さんは、欲がなく、誰にも優しい人だったとか色々聞いた。
弟子は取らなかったが、陶芸を教えてくれと出入りしてる人(前原)が作品盗んでネットで売ったのがバレて、島さんも注意ですませたが(欲しいならあげるから相談しなさい、こんな真似しちゃいけない、といったとのこと)、とうとう3回目で出入り禁止になったとか、大谷翔平みたいな話も出ていた。
この人(前原)は短編映画のロケの時に名刺交換して会っていたが、呆れた話だった。
【短編映画のロケ】
島さんと知り合うきっかけになった、沖縄の陶芸家を主人公にした『やちむん』という短編映画のロケでの話。
ロケの立ち合いで暇してる時(撮影中は問題が起こらない限り基本やることはない)に、島さんがこっそり僕にだけコーヒー出してくれて、島さんも工房や敷地内をロケに貸してて仕事できないから、それで話しかけてくれて仲良くなった。
撮影は2018/1/2-1/9で、先日(2024/8/30)に短編映画『やちむん』の高山創一監督に電話で当時のことを聞くとよく覚えてくれていて、僕と島さんがコーヒータイムしていたのを遠目で見ていたよと言われた。バレてないと思っていたのに、6年目での真実だった(笑)。
映画撮影はプロの仕事だから、せいぜいセットのレンガ積みぐらいしか手伝えないけど、未だに自分が積んだレンガが映像に出るとこれ俺も積んだんだって気持ちが出てくる。懐かしい。
ロケの立ち合いの仕事のために、1週間那覇の家を5時起きで高速道路を移動して同僚と二人で通ってた。高山監督に朝の集合時間を聞くと6時半というので、それに間に合うように島さんの家に着いたが、敷地内に着いた6時半にはもうカチンコで「ハイ、スタート!」ってやってたから焦った。
朝6時半集合じゃなくて、6時半に本番スタートだったw
ということは、本番前の準備は6時より前から始まってるはずだろう。映画って朝早いんだなって思っていた。
この記事を書くために高山監督に電話で当時のことを聞いた。撮影隊で役者は名護市のホテルゆがふゆいんで宿泊、スタッフは古宇利島の一軒家のペンションを貸し切って合宿していたから、撮影現場の島さんの工房兼家まで近くで泊まっていた。それにしても朝早かったよねと聞くと、
「映画にはマジックアワーって言う時間帯があるんですよ。それが日の出からの1時間ぐらいと、日没前の時間帯なのでマジックアワーで撮影したかったんで、日の出前から準備してたんですよ」
と説明してくれた。
マジックアワーは、「太陽は沈み切っていながら、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、しかし最も美しい時間帯」と」を指す写真・映画用語。続けて
「だから、昼間はリハーサルして日没前に本番してたんです」
ああ、そういえば役者さんは昼間のリハ終われば、一回ホテルに帰って中抜けしてたなあ。なるほど、これも6年目で知った真実。
島さんが撮影中、早朝から騒がしいからゆっくり寝てられないと話してたが、日の出前から撮影隊が来てたんだからそれは当然だった。
日中も自宅で作品を磨いて仕上げる作業をしている時も、家の目の前で「カット!」とかやってるんだから、それは普段静けさの中で仕事している島さんには、騒がしかっただろう。
だから、仕事にならないからと撮影を見に来て、立ち合いで暇している僕に話しかけてくれたんだろう。立ち合いの仕事は、ロケ先の現地での調整が仕事だったからちゃんと意味があった。
高山監督も「ロケなんて住んでる人には迷惑でしかないから、撮影後も島さんの窯焚きと窯出しで手伝いに行きましたよ」と恩返しに行った話もしてくれた。
そうか、撮影隊の人もまた島さんとこへ来てくれてたんだ。カメラマンの竹内スグルさんとか機材は東京から来たと聞いてたから、高山監督だけ沖縄の人だと思ってたけど、県内からのスタッフもいたんだ。
ただ、個人的に島さんと親しくなって、陶芸のことも知らないのに亡くなる前まで遊びに行ってたのは僕だけだった。島さんは、気さくで陶芸素人の僕にも陶芸や沖縄の歴史をわかるように話してくれたから、遊びに行くのが楽しかった。
だけど、島さんは親戚の方の誰にもこの短編映画の話を知らせてなくて、四十九日の場でYouTubeを観せてエンディングクレジットに島武己の名前がありますと説明してわかってもらった。
(短編映画『YACHIMUNーwith English subtitles』
https://www.youtube.com/watch?v=BPEJaiVxrOQ&t=104s
YouTubeで「やちむん 沖縄フィルムオフィス」で検索すると約15分の短編映画が観れる。
実際は、40分近く撮ったけど編集でバッサリ切ってた。最期の焼身自殺のシーンは、ガソリンかぶるところでクローズ。後は県の判断でカットされた。)
エンディングクレジットに「ロケ地協力」と出すと、またロケに来られたら嫌だからという島さんからの要望で、「Special thanks」という表記にして、工房の阿弥陀堂古窯の名前も出さなかった。
元々、短編映画の主人公のモデルの陶芸家の國吉清尚氏が島さんと一緒に若い頃に一緒に陶芸の修行した仲(同世代)だったから、普段は見学もできない工房を特別にロケで使わせてくれたと島さんから聞きましたと、2018年1月のことを思い出して親戚の方に話した。
先日の電話で、高山監督に元々島さんと知り合いだったんですかと聞くと、
「いやいや、知り合いじゃないですよ。人づてに紹介してもらったから、撮影は1月2日からだけど年末から撮影させてくださいって島さんにお願いに通ってましたよ。
(短編映画の主役のモデルの)國吉清尚さん本人の窯はもう取り壊してたんで、撮影できなかったんで。跡地は駐車場のトイレになってます。残ってたら本人の窯で撮りたかったんですが。
でも、島さんもロケにすごく協力的で何やってもいいよって言ってくれたんですよ」
薪については、後に盗みの問題を起こす前原に薪を使いたいと伝えたそうで、直接島さんに伝えてないので伝わってなかった可能性もあると振り返ってくれて、島さんと僕の会話では島さんは
「もうここまで来たらしょうがないよ。ロケに貸すって言っちゃったんだから」
と言ってて、島さんがわかっていたのわからないが、どちらにせよ、島さんは協力してくれるだろうし、あとで島さんが薪をまた用意して積む作業をしたんだと思う。
なにせ、島さんの登り窯は特殊で1週間燃やし続ける。通常の登り窯の3日間の倍だ。薪も倍必要だから1年間で薪を集めて貯めているが、近年は薪やまきが価格が上がったりで以前より手に入りづらくなったと言っていた。
ロケ立ち合いには、同僚(新城さん)もいたが役者に初日に怒られたため、駐車場で車でいることが多く、島さんやロケ隊と僕ほど親しくなってなかった。僕自身、ロケから6年経って島さんや高山監督、竹内さんに連絡取るって思ってなかったから、これも島さんのおかげだと思う。
【形見分け】
四十九日で親戚でもないのに東京から来てくれたと、作品を形見分けでいただいた。僕は陶芸やったことないし、目利きじゃないから価値はわからないけど、多分自分じゃ買えない金額なのは間違いない。親戚の方から鑑定にかけたらいいよと言われた。
以前、島さんに1つ木箱に入った作品を見せてもらって、焼いた後、1年かけてサンドペーパーで磨いて仕上げていくやり方をしていると聞いた。
初めてじっくり島さんの作品を初めて見て触れて、陶芸に興味のなかった僕でもどれがいいと言われても、本当にどれも良くて選べない状態になった。
どれにするか選んでる時に、頭が強烈に引っ張られるような感覚があって、島さんからの合図だろうから、島さんがこの場にいるんだなあと感じられた。
光になった島さんの意志が働いたのか、親戚の方から好きなの選びなさいといってもらえた。沖縄のかめーかめー攻撃のようにw
僕は、形見分けの作品よりもここで島さんの親戚の方たちと知り合えて、また墓参りで来た時に今日みたいに温かく迎えてくれるつながりができたことがうれしかった。
島さんのいとこで喪主の島武夫前住職に、僕がこれで本部町に島さんに会いに行くという目的がなくなったというと、
「墓参りでも近くに来たら寄ってくれたら、武己も喜ぶから。付き合いが始まるのはこれからだから」
と言ってくれたことが一番うれしかった。四十九日に沖縄まで来てよかった。
【島さんの人柄】
今年4月15日、生前最後に島さんやに会った時に、新城美子先生からの一人で寂しくないですか?などの質問に対して島さんが
「人生は一つの事を成せば、それでいいんだよ」
と話してくれたことをよく覚えている。島さんの生き方で響いた。
今覚えば、4月に島さんの家に電話が通じなくてコロナと父の葬式で3年行ってないのもあって、急に気になって島さんの家に行ったんだけど。
敷地内に車で入っても島さんが出てきてくれないから、いよいよ何かあったのかと思い、玄関開けて
「島さん!! 」って不安で呼んだら
「ハイッ、ハイハイッ、うたた寝してた」って出てきてくれた。
そしたら、ホッとしたら何やらで
「電話つながらないから直接来たよ!どんだけ心配したと思ってるの!」
と怒ったように言った。実際、ほんとに死んでたらと不安だった。
島さんにしたら、池中君は3年ぶりに急に来て(電話ないからアポなしで行くしかない)、何怒ってるんだろうって顔をしてた(笑)。
で、一つのことを成せば人生は足るって話とか色々を聞いて、工房から出る時に急に
「僕はまたここに来ることがあるんだろうか?」
って、気持ちがよぎって島さんの後ろ姿を初めて撮ったんだった。
予感かあ。初めてそんな気持ちになった。
でも、4月に会えてよかった。本当にそう思う。
古いスマホには、偶然録音できてた島さんの声が残っててさっき再生して泣きそうになった。記者を長くやってたから写真とか録音とか記録をなるべく撮るようにしててよかった。 コピーしてレコーダーごと喪主の島武夫さんに後日送った。
短編映画『やちむん』の高山監督も島さんについて、
「島さんはずっと草履(サンダル)だったじゃないですか、あれは寒くないんですかって聞いたら、寒いけどそれを感じることで感覚を研ぎ澄ませて作品作りに生かすって話してくれて、
中城村で窯を持っていたころは、一時期テントで暮らしてたって話も誰かに聞いたことがあるから、それも作品作りのため自然の感覚を感じるためだったんだと思います。
なんていうか、その道を究める『求道者』なんですよ、島さんは。陶芸(作陶)に全てを捧げるみたい。だから、僕らがロケで日の出前から撮影で騒がしくしても、作品のために朝早くからがんばってやってるから文句言わずに見守ってくれてたと思います。
ストイックという点で、島さんと池中さんは似てるから気が合ったんじゃないかな。
撮影後に島さんからいくつか作品いただいて、カメラマンの竹内さんたちと分けたんですよ。だから、撮影中はうるさくて迷惑かけたと思うけど、島さんにとってもあの撮影期間中はいい思い出になってくれたと思うんですよ。
だから、ずっと島さんのこと覚えてるんですよ。2年前に入院したってのも聞いてたし、でも亡くなったのは知らなかったんで教えてくれてありがとうございます」
島さん本人から直接作品もらったのはすごいな。確かに、島さんにとっていい思い出になったから、島さんも作品を記念にあげたんだと思う。撮影後は、もう静寂の場所に戻るのだから、ロケ中が島さんの晩年で一番にぎやかだったんじゃないかな。
高山監督は沖縄在住だから新聞で訃報を知ってるものだと思っていたけど、四十九日の法要を連絡すればよかった。
僕には、島さんのように人間国宝を断るなんて崇高さやストイックさはないけど、嘘ついたり人を騙すことが嫌でしないってところは島さんと似ていると思う。島さんと話していて、嘘がなく自慢もしない優しい人柄は好きだった。
この他にも、短編映画の撮影でヘビ(蛇)が出てくるシーンでは、沖縄本島南部にある沖縄ワールドからヘビとヘビ使いを呼んで、ヘビのシーンを撮るのにヘビがじっとしてくれないから(当たり前だけど)、何回も苦労して撮影したこととか、盲目のおばあちゃんが陶芸作品に触れて涙するシーンも撮ったのに完全カットで一秒も使われなかったという話も聞いた。
ロケに関わったので、せっかく撮ったシーンをあと5分尺がある(短編映画は20分以内)からもう少し使ってほしかったというのと、編集でテンポはすごくいいんだけど、國吉清尚氏の人生を知らないと内容がわかりづらいという率直な感想も伝えた。
なにせ、僕は1月にロケして3月末で任期満了で退職して、4月の沖縄国際映画祭での初上映の時までいなかったから。カメラマンの竹内さん経由でかなり後で短編映画を観せてもらったから、高山監督に直接感想を言うのはこの電話が初めてだった。
この高山監督との電話も全てが懐かしかった。僕にとっても島さんの家でのロケが沖縄の現場ロケの最後の仕事で、ロケで5日間という長丁場だったからすごく印象が残ってるし、その後島さんとこへ遊びに行くきっかけになった。
今回、この記事を書くために高山監督には撮影以来6年ぶりに電話をして、懐かしい話と自分では知らなかった裏話も6年目の真実として聞けた。
なによりも高山監督も記事にコメントをくれた短編映画の時のカメラマンの竹内スグルさんも、みんな島さんのことを印象深く覚えていて、あの島さんの人柄や島さんの工房兼自宅のあの場所は撮影できたことが幸運だったと言ってくれたことがうれしかった。
自分と同じように島さんから強い印象を受けた人がいた。それも陶芸関係者じゃなくても島さんから何かを感じていた。それがわかってよかった。
他にも、2021年1月30日に画家の先生が車を出して、島さんを連れ出して車で花見に行ったことがある。楽しかったし、島さんも楽しんでくれたと思うけど、画家の先生は僕と一緒だと島さんに会えるけど、一人で会いに行くのは畏れ多いと話していた。すごい先生だからと言っていた。
その点、僕は気にしない性格で、島さん本人が僕を気にいってくれてるかどうかで、本島北部来たら島さんところに寄っていた。島さんと気が合ったし、島さんも受け入れてくれてたと思う。
NHKの朝ドラで女性陶芸家のドラマが放送されている時に、登り窯を見学にさせてほしいと、6、7人で島さんとこに押し掛けたこともあった。その時には、前日に一人で島さんとこに行って明日大勢で来るけど大丈夫?と許可を取った。
他の人は「島先生」と呼んでいたが、僕は島さんから陶芸習ってるわけじゃないからと島さんと呼んでいた。島さんは見知らぬ人が6人も見学に来るのは、僕と二人でいる時よりはリラックスしてなくてしんどそうだったから、その時は30分程度帰った。僕一人で行くと1時間半とか2時間ぐらいは話してくれてた。
島さんの話は、陶芸だけでなく沖縄の歴史や神事(かみごと)と多岐にわたり、まるで授業を受けてるようでもあった。
形見分けで作品をじっくり見て、島さんは陶芸で作品の美しさを通して、人の心が霊的に高まる仕事をしていたんだと思った。
島さんは「那覇は色が洪水のようで好きではない」と言ってて、他の人からは仙人みたいだとか言われることが多かったけど、僕も島さんは精霊とか妖精のように感じたところがあった。
今回、沖縄で色々あってもう来ることがあるのか迷ったりもしたけど、島さんと島さんの親戚の方によくしてもらえて、また来ようと思えた。
島さん、ありがとう。墓参りにまた来ます。
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追申、この記事を短編映画『YACHIMUN』のメインカメラマン兼編集を担当した竹内スグルさんに送ると、読んでくれて返信を頂けた。
「池中さん、知らせていただいてありがとうございます。
島さん、いつもサンダル履いてらして、理由を聞いたら、裸足だと感覚が研がれるからと仰ってた事が印象的でした。冬でもサンダルだと。
すごい人なんだけどいつも穏やかでしたねー。
薪、そんな事があったとは露知らず、でも考えてみりゃあそうですよね。迷惑かけちゃったなあ。
あの場所自体がとても神秘的な感じで、自然と一体化していて、その場所を作っていた島さんはそこからしてすごい気がしますし、
そんな場所を見せて頂いた僕らはとても運が良かったんだと思います。
ご冥福をお祈りします。」
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