散華
本棚の隅から文庫本を抜く。
ページを繰ると、ひらり、花が落ちた。
否、本物の花ではなくて、紙の花だ。
花びらの形を模した紙片は、散華と呼ばれる。
母の実家は寺であった。
幼い蒼衣と母が訪れると、玄関に伽羅の甘い香りが漂う。
家の奥からは木魚が音を刻み、経を唱える声が静かに響く。
「いらっしゃい。あがって、あがって」
胸元に刺繍があるエプロンを身につけた祖母が、笑顔で迎えてくれる。
「おじいちゃん、お寺?」
「そうなの。あともう少しで終わるからね」
母から手土産を受け取りながら、祖母がふたりを母屋へと誘う。
寺と住居が渡り廊下でつながっていて、住居スペースは母屋と呼ばれていた。
祖父が「お坊さん」であることは分かっていた。
小学校でその事を話すと、同級生の中には「人が死んだら儲かる仕事」と揶揄う者もいた。
腹が立ったが、本当のところそうなのかもしれない。
死は、蒼衣からずっと遠くにあった。
「蒼ちゃん、いらっしゃい」
黒衣のままの祖父が顔を覗かせた。
見るたびに、お坊さんだ、と思う。
「おじいちゃん、今日、紙のお花ある?」
「うん、あるよ。まだそのままにしてある」
「もらっていい?」
頷く祖父を確認し、蒼衣は渡り廊下を小走りで寺に向かう。
先ほどまで法事が執り行われていた本堂は薄暗く、まだ人の気配が残っているようで、蒼衣はぶるると肩を震わせた。
阿弥陀如来の正面、祖父の席付近には、数枚の散華が散っていた。
花。天女。笛。太鼓。
表裏の絵を確かめながら一枚ずつ拾う。
「散華というんだよ」
「さんげ?」
「そう、散華。おじいちゃんがお経を唱えながらこの紙を撒くの。花の代わりに」
「どうしてお花を撒くの?」
「阿弥陀様にお供えするの」
祖父が話してくれたことを、蒼衣は憶えている。
散華は、美しく不思議なものとして蒼衣には映った。
栞に使ったり、気に入りの小箱に溜めた。
箱を開けると、仄かに線香の香りがした。
中学1年の夏に祖父が急逝した。
祖父に触れて、蒼衣は全身でぶるると震えた。
その冷たさに慄いた。
「さいごは阿弥陀様のところへいく」と話していた通り、祖父はいってしまったのだろうか。
散華が仏への供えものであるならば、こちらとあちらとをつないでしまうのか。
いなくなることが怖い。
小箱の蓋は開けられぬまま月日が流れた。
本から舞い落ちた散華が、時を呼び起こす。
幼い自分が渡り廊下を駆けていく。
紙の花を拾う。
一枚。
もう一枚。
恐れは強まり弱まりながら、この先も消えることはないのだろう。
幾つかの別れを経て、そう思う。
咲いて枯れ地に落ち、また芽吹いて咲くように、気持ちは巡りゆく。
震えてもいい。
揺れてもいい。
それでいいと、祖父は言ってくれるだろう。
祖母は微笑んでくれるだろう。
小箱は、蒼衣の心の中にある。
過去にも今にも未来にもある愛おしいものたちを、これからも集めていけるように。
開いたページに散華をやさしく挟む。
紙の花からは、何の香りもしないのだった。
【 了 】
(1198字)
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