イカロスの末裔
世の中で生きている限り私たちは常識を身に着けてしまい、そんな中で起こる偶然に感動してしまうかも知れませんが、そんなあなたに棒を刺す、流れを止める、告げ口をする。
まず、有名な偶然を。
教会での聖歌隊。その日は15人それぞれ全員がそれぞれ異なる理由で遅刻した。一人は寝坊。一人はラジオ中継が延長して。一人は車の調子が悪くて。そんな理由をそれぞれ15人持っていて時間通りに教会に集まらなかった。同じ日に異なる理由で15人が遅刻する確率は、みんなが4回に1回は遅刻するとしても10億分の1。それだけでも我々はその偶然を語り継ぐのに足るのに、なんとその日に教会は何者かの手によって爆発したのです。さて、教会が爆発する確率と前述した確率を掛け合わせるとどのような数字が出るのでしょう。
偶然は糸の束(たば)のようなものです。つまり個別のものが集合する現象を度々偶然という概念に関連付けられるのです。上の例にしても、個別の聖歌隊の人たちが束になって遅刻して、遅刻したという現象と教会が爆発したという現象が重なった、色々な束なのです。何らかの集合を紐解こうとすると私たちは偶然を垣間見ます。
ゴルフでのホールインワンは長らくその確率の低さから言って賞賛される行いとされています。あの広いグリーンにあるゴルフボール大の小さな穴めがけてクラブをぶつける。確かに見事穴に収まったのならばそれはすごいことでしょう。しかし、あの広場において、クラブにあたったボールが落ちる可能性のある位置は無限に近くあります。ただ、そこに穴が空いていないだけで、確率で言ったら一箇所に落ちる確率はホールインワンのそれと同じなのです。大切なのはそこに穴がない。つまり穴があるところに落ちて意味があるという「意図」が偶然には不可欠なのです。
サイコロを六回降って、全てが「1」である確率の恐ろしさは予想できるでしょう。次いで、サイコロを試しに6回降って出た適当な数字も確率で言ったら「1」のそれと同じです。ただ「意図」がなかっただけで。同じ確率が「意図」の有無でうやむやに。
とどのつまり「意図」を無視した偶然の塊が私達であり、「意図」なき偶然に感謝をすると、ああ世界の輝きよ、儚さよ、これを祈る理由などいらなくただ私たちは雨だろうが晴れだろうが天に頭を垂れてもバチの当たらない。なんと美しい宇宙。
生命の誕生に涙するのは「意図」ある偶然だから。偶然の仕組み、つまりは「必然の気まぐれ 偶然の生まじめ」に気付いたのならば、同じように生命の破壊にも生命の誕生と同じベクトルの涙をながすことが出来るのです。私たちは明るいニュースに悲しみ、暗いニュースで笑うことの出来る生き物なのです。善者を非難轟々に悪者を賞賛することも出来る。ヒーローに唾を吐き、犯罪者に拍手を贈ることも厭わない。「意図」に惑わされずに。