東京物語②──杣道
東京で居候している。
9月11日(月) バイク免許合宿メンバー再結集
バイク免許合宿で仲良くなったメンバーで川崎に集まった。下記noteで集まった6人である。
2ヶ月ぶりの再会だ。本当に全員がこの場所に集まれるだろうかという心配もあったが、集まってみれば、まるでバイク免許合宿が昨日のことだったかのような自然さだ。
今回はRさんが予約をしてくれている。1軒目は鳥料理と水炊きのお店。3時間食べ飲み放題でしっかりと飲み食いした。このメンツで飲んでいると、呼べば店員さんが生ビールを持ってきてくれるのが新鮮に感じる。前回は公園に建てられた東屋に酒と肴を持ち寄って飲んでいたし、合宿中に集まったときはどうしても宿舎の門限があったので、あともう少し飲みたい、という惜しさがあったのである。今回は目一杯飲めたと思う。満足なり。2軒目はHUBに行ったが、随分と酔っていたので、楽しかった感触だけを残して記憶がやや不明瞭である。
スモーカーのRさんとMさんにはゴロワーズを1箱ずつプレゼントした。美味しい美味しいと吸ってくれるひととは何本でも共有したい。これで私の手持ちゴロワーズはあと1箱である(大阪まで持つだろうか……)。
メンバーには就職や海外勤務を控えているひとがいるので、また全員で集まれるのはいつになるかわからない。が、それでいい。今ここで集まれたことがうれしい。本当に楽しい晩だった。また定期的にグループラインを動かそうという話をして、終電が近いものから去っていった。
9月15日(金) ツリー構造について
大学1年からの友人、ゴルファーと会った。彼との話が印象深かったので、ここにその備忘録を残しておきたい。話したのは、ツリー構造とどう付き合うかという話。シーシャをふかしながら随分と話し込んだ。
ツリー構造の例
ツリー構造というのは、わたしたちの社会のあらゆる部分に浸透している考え方で、卑近な例なら、会社組織というのがそれに当たる。社長の下に幹部がおり、その下に部長がおり、以下は課長、係長、平社員、というふうに続いていく。会社の種類や規模によってこの間には様々なバリエーションがあるが、基本的にはこのような下位の構造が上位の構造に包含されるという樹形図を描くことができる。その分け方はMECE(漏れなくダブリなく)が基本だ。平社員と社長の間には線を引くことが基本的には許されておらず、何か上申したいことがあれば、一階層上の上司に伝えることになる。反対に、トップダウンの命令が降る場合も直接社長や幹部から中間管理職を飛び越えて広がるわけではなく、部単位、課単位での情報共有がなされて最後に一番末端まで伝わるようになっている。
ツリー構造は創意である
またこれは、組織だけに当てはまるわけではなく、物事を分析的に捉える場合にも用いられる考え方だ。卓上に1個の林檎がある。わたしたちはそれをほぼ無意識に可食部と非可食部という分け方をするが、必ずしもその分け方だけが林檎の分析になるとは限らない。植物学者にとってはそれは果皮と果実と種等に分けることができるかもしれないし、画家にとってはそれは緑と赤と橙と茶色と、白と黒と……、という分け方になるだろう。ツリー構造を見出すのは恣意的な行為だといえる。
ツリー構造は、既に事物の中に潜んでいるものを取り出すことではなく、創意である。このことは強調してもしすぎるということはない。つまり、一般的に思われがちなようにツリー構造を作るということは問題の解決ではなく、積極的な問題の創造であり、どのようにものを分けるかということには独創の余地があるということである。
ツリーを構築するには、全体を一挙に把握することが求められる。そしてその全的な把握に必要なのは合理性や論理ではなく、論理を超えた論理、超論理とでもいえるような感性である。思えば、鹿の肉の解体でも同じことが言える。どこにナイフを入れるべきかを把握して、「自然な」ところで切り分けていくのだ。
論理やツリー構造というのは一挙に把握したものを事後的に説明するときに初めて必要となるものである。論理は「後」だ。論理の底には、あるいは根には感性的な把握がある。だから、論理一辺倒の人間には、ツリーを扱うことは難しい。そして、あるいはだから、実際論理的とされる人こそ、感性的な把握に優れていることも少なくないはずだ。感性的に把握したものあとから誰かにわかりやすく説明することができるというのが、いわゆる「論理性」ではないだろうか。
木を見る
木を見るときにその地上に出ている部分だけを見ていては木を見たことにはならない。木が木として立ち上がることができるには、それを支えるような根がなければならない。上に伸びているのと同じ分だけ下方へと張られた根があるから木は木であれるのである。
そう思うと、このツリー構造が乱立した世界の景色が変わってこないだろうか。わたしたちは、誰かが立てた木の、その見えている部分だけを見てその風景に安住してはいないだろうか。見えない地下には、その木が木であれるための最初の一区切り、最初のスラッシュ、最初の傷痕があったはずなのだ。誰かが木を建てたのだ。それを透視することができるようになると、この木だらけの世界を少しずつ動かす可能性に開かれてくる。
ツリーとツリーの間を縫って、新たに木々を結び直すことができるようになる。それはゴルファーの言い方を使うなら星座を結ぶ想像/創造力であって、リゾーム的に接続あるいは切断することが可能になる。
行くのだ、杣道を。ツリーの間を歩いて、それらを結び直すことがわたしたちにはできるのだ。
9月16日(土) 米とサーカス
高田馬場に「米とサーカス」というジビエと昆虫食のお店がある。メンバーは5人。今年厚沢部で一緒だったYさん、小野Dと、去年の参加者のはるくん、しゅうとくんである。
どうして今回去年の参加者と連絡が取れて、集まることになったのか疑問に思うひともいるかもしれない。経緯は以下である。合宿プログラムには誰もが好きに書き残しておける宿舎ノートというのがあって、それが過去何年分も読めるようになっている。そのうちの去年のノートを小野DとYさんが読んでいたときに、電話番号を書いている参加者を見つけたのだ(それがしゅうとくんである)。電話すると、一度は繋がらなかったものの、あとから折り返しが来て、あとはそのまま合同の飲み会をする流れとなった。書き残しておくことで繋がる縁。しゅうとくんもびっくりしたことだろう。
メニュー
食べたメニューを掲げておくのも、如何にこの店がおもしろい店かということを示すのに悪いことではないはずだ。
もちろん、どれもがいわゆる「美味」というわけではないし、逆に、一般的なイメージに逆らってかなり美味しいものもある。たとえば蛭酒はかなり臭みが強いが、ゴキブリ酒は香ばしくいい香りがした。タガメは本当に驚きで、かなり塩辛いのだが香りがまるで洋梨そのものである。話によると、これはオスが出すフェロモンの臭いらしい。命の味わいである。
いただきます。
そしてごちそうさま。
ジビエと昆虫食の店だから特別というわけではない。生き物をいただいているからだ。直近のnoteでも引いたが、何度でも引用しよう。
マルクスは「五感は歴史的に形成されたものである」という。今の「美味しい」「まずい」も、一過性のものなのかもしれない。きっとわたしたちの食の嗜好は変化していくのだろう。昆虫食が流行りつつあるが、これからもっと広まっていくかもしれない。そして、何を食べるにしても何を食べないにしても、わたしたちは命を戴いているという事実を忘れてはならない。「自分の肉体を養う要請に出ずるとはいえ」、わたしが食べるその食材にはかつての所有者がいたのである。
だから、何度でも、いただきます。ごちそうさま。と言う。
また集まることを約束して、それぞれ帰路に就く。