真空状態で仕事をする──仕事に違和感を覚えるわたしたちのために
真空がこわい。なにもないことが、こわい。それでわたしたちはこの真空を埋めようとする。だが、この真空にくつろぐことからしかわたしたちの「仕事」は始まらないのではないか。
休職開始から1年、復職から半年経ったタイミングである今、「仕事」というものについて考え直してみたいと思う(約5,000字)。
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6月だ。去年の6月に休職しはじめたのを思い出す。そういえば会社に行けなくなったのはこんな気候だったか。わたしが休職していたのが6ヶ月間だから、この6月は復職して半年というタイミングでもある。休職と復職については、過去に以下のnoteに書いた。
休職しはじめの時期のnote(↓)。
復職したときのnote(↓)。
「仕事」への違和感
今一度、仕事というものについて考えたい。仕事がなぜしんどいのか。ひとによってその理由は異なるだろうし、そもそも仕事がしんどくないひともいる。あるいは、仕事とそれ以外の時間がわけきれないような生き方をしているひとにとっては、「仕事」を主語にして語ること自体、しっくりこないかもしれない。
だがいずれにせよ、わたしはいわゆる「仕事」という言葉に違和感を覚えている。シェアメイトに「仕事行ってくるわー」と言って家を出るときも、「最近仕事どうなん?」と尋ねられるときも、釈然としない。ある言葉が目の前に濁って立ち現れてくる、そんなとき、わたしはたいてい、言葉の語源を調べる。手元の『岩波古語辞典』を引くと、次のように出てくる。
「為事」という字のとおり、まず、「しごと」とは、すること、したこと、しわざであるが、二つ目の「業としてする事」という意味が興味深い。今日の仕事は「業」というには、随分漂白されきっているような印象を受ける。お金を稼ぐ手段だったり、顧客に価値提供すること、であったり、社会に貢献すること、であったりするわけだが、背負うほどの業を感じさせない。というよりは、きれいな言葉だけが上っ面を滑っていくようなざらつきのなさを感じさせる。
「業」というほどの重みを引き受ける「仕事」が、今日にどれほどあるだろうか。
河井寛次郎の「仕事」
ところで先月、第2回三服文学賞で大賞を受賞した。受賞作であるエッセイ「水のからだ」では、7つのテーマのなかから「うつわ」をメインテーマとして選んで書いていた。選考委員の染谷拓郎さんは選評で、次のように書いてくださった。
河井寛次郎をちゃんと読んだことのなかったわたしは、今になってちゃんと読み始めている。「いのちの窓」という箴言集、と言っていいか、詩集のような断章群では、透徹したまなざしで、にもかかわらずしっかりとひとの香りのするような筆致で、人間の存在、営みが表現されている。そこには、「仕事」という言葉が少なからず登場する。染谷さんが引いていた言葉もそうであるが、これらの言葉を手掛かりにしたら、わたしにとって「仕事」という言葉が息を吹き返してきそうな予感がある。
河井寛次郎本人の「自解」とともに、引用する。
ここには、仕事はそれ単体であるわけではないということが言われている。仕事とは、ひとが見つけるというよりは、仕事がひとを見つければこそ、見つかるものであり、また、そういった仕事は、ひとりの仕事でありながらも、ひとりの仕事ではないとのことである。ここでわたしは、responsibilityという言葉に思いいたる。
call & response
コールアンドレスポンス。ライブ等で、演者が歌ったり語ったりしたのに呼応して、観客が返事を返すことのことだ。なぜこれが「仕事」に関わってくるのか、といえば、それは仕事には責任が伴うからだ。だがその「責任」はここでは、一般的に思われがちな負うべき重たいもの、押し付け合うような面倒なもの、というよりは、英語のresponsibilityという語が表現しているような、反応することができる能力のことを指すものとして捉えたい。
response + ible + ty、反応するーことができるーということ。それが責任の原義だ。だが、責任、仕事は、それ単体で存在するわけではない。それが反応である以上、つねにすでに、何かに対する反応である。それが、callである。callとは呼びかけのことだが、これがCallingという形になれば、「天職」や「職業」のことを指したり、神による「召命」を意味したりもする。言うなれば仕事とは、呼ばれることとしてあるのだということだ。そして、それに応えるということが責任を全うすることである。
ならば、仕事とはひとりで完結するものではない。誰かに呼びかけられてこそ、仕事は起動するのだし、それに応えることで仕事の一サイクルが回る。だから、河井寛次郎の言うように、「人は知らない自分を知らない自分で見付ける事は出来ない。」ということになる。わたしははじめからなんらかの職業人として存在しているわけではない。誰かへの応答として仕事をすることで、わたしという主体が作り変えられる。知らない自分を知らない自分で見つけることはできない。見つけてもらうことによって、呼ばれることによって、わたしは「わたし」になる。仕事をし続けるとは、新しい自分と出会い続けるということだし、だから河井寛次郎は「新しい自分が見たいのだ──仕事する」という言葉を残したのだと読むことができる。
新たな自己を発見し続けるということ、「わたし」になり続けるということが「仕事」だとしたら、それは「業」と呼ぶに相応しいものではないか。
真空恐怖ゆえ、業を引き受けることができない
では、なぜわたしは、わたしたちは、この業を引き受けることができないのか。それは、真空に耐えられないからだ、というふうに言えると思う。では真空とは何か。鷲田清一『だれのための仕事:労働vs余暇を超えて』に問おう。この本によれば、わたしたちの人生観は二つのことを前提にしている。ひとつは、人生をまっすぐな線のようにイメージするということであり、もうひとつは、現在というものが別の時間のためにあるという価値観である。
そしてこの「前のめりの意識」は細かくみれば次のような要素に分解することができる(この1.〜5.は軽く読み流してもらえればよい)。
進歩〈プログレス〉という理念
進歩という理念に現れている啓蒙主義的な発想。つまりは、知識の増大、真理への接近、合理性の開花、道徳性の向上、生産力の拡大、貧困からの解放のように文明的価値が人類史を通して累進的に増大していくという歴史感覚。〈プロジェクト〉という観念
企業においても個人においても、プロジェクトを立ち上げ、プロミスをし、というように、未来における決済を前提に今の行動を決めるという態度。追いつけ、追い越せと言う意識
2.を反転させると、他人や社会に遅れてはならないという強迫的な意識となる。劣ること、遅れることを致命的な傷と感じ、自己のアイデンティティの消失と感じるため、より速く、と焦るということ。〈青い鳥〉幻想
「こうすればじぶんはもっとじぶんらしくなれるんじゃないか」という、じぶんをつねに本来の「自己」にいたる途上にあるものとして意識する心的メカニズムであり、そういうかたちでじつは欲望をどんどん再生産していく装置。新しいものはみなよい
欲望の対象をたえず交替させることで欲望そのものをたえず再生産していく、そういう意味装置に対応するような感覚。
そして、この前提のもと、わたしたちは〈真空恐怖〉を抱く。時間の空白は、意味と価値のあるものによって埋められなければならない、という強迫的な意識だ。スケジュール帳の分厚さと、その埋まり具合がわたしたちの心を癒す。予定ばかりではない、エレベーターに乗っている間のわずかな時間でさえ、スマートフォンを開いてチェックしてしまうし、真っ暗な画面を前にするとなんともいえない不安を感じて、すぐに通知の有無を確認してしまう。こうしてわたしたちは前へ前へと駆り立てられていく。予定してはそれを達成して、何かを約束してはそれを実行して、そうしてわたしたちは線を描いているのだ。
言ってみれば当然の話だ。「神が死んだ」今日においては、かつて垂直的関係にあった神の国と地上の国との関係が、水平になったというだけの話だからだ。隠されている神の国の実現に向けて一所懸命に生きることが存在理由だったのが、この先の未来で報われるべく前へ前へ生きようとすることを存在理由にするようになったというだけの話だ。そして科学技術もそれを後押している。この進歩史観。
わたしたちは真空を恐れて前へ前へと進んでいく。そして前へ前へと進んでいくからこそ、この真空を受け止めることができない。
真空はそれほどに恐ろしいものなのか
ではここで問いを立てよう。真空とはそれほどに恐ろしいものなのか、と。思えば、真空とは、当たり前の事実ではないだろうか。刻一刻と生まれては死んでいる、死んでは生まれているわたしたちにとって、「ここ」を満たすなんてことができるのだろうか。むしろ、真空が前提である。進もうとするから真空が怖いのであって、進むことを一旦手放してみたら、ここが、この一瞬一瞬が充実していることがわかるはずだ。あるのにない、ないのにある。
静止してみる。動きは呼吸だけ。そうすると、様々な音が聴こえはじめる。そしてその音もまた、生まれたときには消えており、消えることで現れてくる。呼吸が速くなる、遅くなる。大きくなる、小さくなる。わたしはここに、いる。そしてわたしはここに、いない。これが真空の妙味だ。シンプルに生きていることが愉快だ、そして、生きていられていることが「有難く」思われる。明るいニヒリズム。
誰かの声が聴こえる。今は聴き取ることができる。前にばかり進んでいたときには聴きこぼしていた声だ。わたしを呼んでいるような気がする。ならばわたしはそれに応えなければならない。立ち上がるとしよう。
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業とは、他ならぬこのわたしが引き受けなければならないことである。そして、わたしが引き受けるには、他ならぬこのわたしが呼びかけられていると感じる必要がある。だが、呼びかけを聴くには、こちら側の準備ができていないといけない(レヴィナスなら準備なんてものは想定しないのだろう)。その準備が、真空に安住するということだ。そして、安住するには、前へ前への意識を一旦宙吊りにしておいて、ここに静止する必要がある。静止すればこそ、わたしたちは「仕事」をすることができる。
わたしが今の仕事に安住できていないのは、そこに誰かからの呼びかけを聴くことができずにいるからだと思う。耳を澄ませたい。そして、聴こえてきたものに忠実に、応えたいと思う。
最後に河井寛次郎の言葉を引いておこう。
仕事が呼びかけに応えることであるならば、四六時中響いているはずの呼びかけに、わたしたちは片時たりとも耳を塞ぐことはできない。応えるのは、生きることだ。業とは生を賭けうるものではないか。生活から仕事だけを切り出そうとすることによって、わたしたちは血を流している。ここを切らなくてもいいということがわかると、出血は止まる。真空状態に、血は流れない。
わたしはいったい、何に応えたいのか。
遠くからわたしを呼ぶ声が聴こえる。
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