ヴィパッサナー瞑想の感想(2/5回)
5日間、計5回に渡って投稿するヴィパッサナー瞑想の感想、第2回です。第1回はこちら。
振り返ってみるに、この3〜6日目は、人間としてかなり低次の状態にあったのだと思います。人間にとっての自然とは、あるいは自然に占める人間の存在とはなんなのか、そんなことを考えていました。
第1回:●はじめに/●2日目
第2回:●3,4日目/●5,6日目
第3回:●8日目
第4回:●9日目/●10日目
第5回:●まとめとして
●3,4日目
この頃になると、生活にも少しずつ慣れてくる。この頃わたしを支配していたのは、食事と排便のよろこびだった。その二つだけが楽しみであった。人間性が表れ出る場所がそこにしかないように思われたのだ(「人間性」とはなにか、ということには後で触れるとして、ここでは「個性の発露」くらいに理解していただきたい)。人間を駄目にするには、人間を完全に「同じように」扱うのがよい。「同じように」という言葉の意味、一つは、一人の人間を毎度「同じように」扱うということであり、もう一つは複数の人間を「同じように」扱う、ということだ。私たち参加者は皆、同じように、同じように扱われていた。わたしはそう感じていた。
当然であるが、ヴィパッサナー瞑想は人間の個性を殺すために行われるのではない。ただ、無常や無私といった感覚を体得しやすいように、方法として、あるいは運営する上での必要性から、こういう形を取らざるを得なかったのだと思われる。
そしてこの頃わたしは『夜と霧』のフランクルを思い出していた。この10日間の「非人間」を生き延びるには、その後に何をするかひたすら考え続けるしかないと思った。フランクルが強制収容所から帰還した後、『夜と霧』をものし、講演をしたように、わたしもこの経験を「俗世」に戻ったあと、感想文として投稿しようと思っていた。あるいはセンターに向かう途中に少しだけ会話を交わしたフランスからの参加者、サムに、コースが終わったらフランス語でどうやって挨拶しようか、と考えていた。
わたしには食事しか楽しみがないと言った。食事が楽しい、とはいうもののしかし、それは会食の楽しみではない。座席は互いの顔が向かい合わないように配置されている。だからその楽しみとは、口吻を使うことに伴う楽しみ、いわゆる口唇欲求が満たされる楽しみだ。飴を舐めること、指を噛むこと、タバコを吸うこと。これらと同じ類の楽しみ、快楽だ。
またわたしには排便しか楽しみがなかった。排便とは人間最初の創造行為である。無力な赤ん坊さえも、己の肉体を使って、「もの」を「形づくる」。その神秘にA感覚の稲垣足穂や、太陽肛門のバタイユといった人間は気づき、惹かれていた。
フロイトは人間の発達段階を生後から、口唇期、肛門期、男根期……と分けたが、わたしがこのとき感じていた楽しみはちょうどこの最初の二つに相当する。口唇期とは口で「快感」を感じる生後1歳半くらいまでの時期のことで、肛門期とは排泄に伴う「快感」を覚える3,4歳ごろまでの期間のことだ。そのあと「快感」の中心は男根(あるいは男根に相当するもの)に移っていく(性的感覚で人間を捉えようとするリビドー理論は批判が多いようであるし、また、事実、ファロセントリズム、非常に男性中心的な考え方である。ここでは自分の理解のためにこの枠組みを使っている、というように考えていただきたい)。
このときのわたしは非常に幼児退行的であった。だがこれはただの退歩ではなく、他方でそれは幼い頃から続いている条件付けの清算を準備するものであったとも思う。一度わたしは自分の幼い頃を思い出す、いや、幼児だった頃の自分になる必要があったのだ。胎児が腹の中でじっと機が熟すのを待つように、わたしも自分の生誕を待ちわびていた。わたしは時の流れを待つ無力な幼児であった。
●5,6日目
だが、ずっと幼児であれるはずもなく、ついに5日目に「人間に戻りたい」「人間がこうであるはずがない」という反抗心が噴き出してくることになる。
5日目昼食後の瞑想のときのことであった。静かな瞑想ホールで瞑想をしていると、遠くからモーターの音が聞こえてくる。おそらくチェンソーか草刈機の音、草木を伐っていたのだろう。その音を耳にしたときにものすごい快感が身を打った。
これはいかなる類の快感であったか。それは自然に抗い、自然を拓いて自分たちの世界を造り上げてきた人間の快感であった。普段は自然を大切にしたいと思っているわたしであるが、このときばかりはもっと刈れ、もっと伐れと思っていた(自然を大切にしたいという思いそのものがある種の抑圧を含んでいたのかもしれない、と今なら思う)。そう、人間にとってのnature(自然、本質)とは「自然」に抗うこと、「反自然」であり、逆に自然を大切にしようとしたところでそれ自体がまた「反自然」になるのだと思っていた。
こうして、グループ瞑想の時間は瞑想ホールに留まってちゃんと瞑想するが、それ以外の瞑想の時間は空想に耽ろう、「反自然的」であろう、と考えていた。
その夕べのティータイム、わたしはいつもより派手に林檎に囓りついた。これが人間だと言わんばかりにあごに果汁を滴らせながら。
わたしは非常に惨めであった。
(続く)
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