18歳、恋に受験に敗れ、祖母にこぼした「生まれなきゃよかった。」
前回は、中高時代の話。父の元を離れ、母による僕の"私物化"が始まったこと、その束縛から逃げるように祖母に助けを求めるまでのいきさつについてでした。今回はそんな祖母との思い出、そして人生最大の後悔でもある、僕が祖母に吐いた弱音「生まれなきゃよかった。」について話していきます。
祖母が、助けに来てくれた。
「ばあちゃん、お母さんが、おかしくなっちゃった。」
母はもともとヘビースモーカーで、僕が高校2年生の頃にはさらに酒とたばこが手放せなくなっていました。毎日換気扇の前でたばこを吸い、焼酎を飲み、毎晩涙を流しては意識を失うように眠りにつきました。4Lの焼酎ボトルをたったの5日で空けるほどで、「酒におぼれる」という言葉は母のためにあるのかと思わされるありさまでした。母の依存と精神不安定は周囲もコントロールできない状況にありました。
そんな中、祖母は地元から札幌に来てくれました。祖母が来る本当の目的は病院通いで、母が車で迎えに行き、僕たちの家に1週間ほど泊まりながら札幌の病院をはしごしました。この期間、母も祖母の面倒を見ながら、自身もリフレッシュできる時間になっていたようです。
生粋のばあちゃんっ子
ところで、僕と祖母の関係性はというと、こちらもこちらで僕が小さな頃から抜群に仲良しでした。祖母には小さな頃から本当にかわいがられて育ててもらったなと思います。
2,3歳の頃、祖母の家の寝室で、僕が歌に合わせてヨチヨチ踊っていると、祖母も一緒になって踊ってくれました。孫の相手をしているだけのつもりだった祖母も、踊るうちにだんだん楽しくなってきたようで、腹を抱えて笑って、ベッドに寝転がって、2人でまた笑っていました。
4歳の頃、祖母が、農家をやっているご近所さんから「うちの畑のとうきび(とうもろこし)、採っていいよ」と言われ、一緒に畑に潜入しました。僕の背丈の3倍はある大きなとうきびの茎をかき分け、祖母の陰が見えなくならないように頑張って進むと、祖母は大きな大きなとうきびの実を剥いて「いいとうきびだ、すごいしょぉ!」と見せてくれました。家に帰って湯がいて食べたとうきびは、スーパーで売っているとうきびだって、美味しさも新鮮さも思い入れも、祖母と採ったとうきびに敵うはずもありません。
僕のように2000年代生まれでこんな体験をして育った子は、きっとほとんどいないんだろうなと思います。
いつも危険を顧みず、ワクワクすることにまっしぐらな性格は、どこか自分に似ていて、というか祖母から受け継いだDNAが僕の中に確かにあって、祖母と孫の相性は最強でした。実は僕の祖父母は、父方母方両方とも離婚していたため、僕にとっては会うことができる唯一の祖母で、祖母にとっては夫が居なくなった家を賑わす唯一の存在が僕でした。
みんなで頭を抱えた、母の病状。
高校生になっても変わらずばあちゃんっ子だった僕は、何とないタイミングで、
「お母さんって昔どんな子どもだったのー?」
と聞いてみました。
「まじめでスポーツができて、そこそこ優秀だったと思うけどねえ。最近のお母さんはお酒におぼれちゃって、困ったねえ…。」
いつもは辛うじて母親の姿を保っている母も、自分の親が現れると、お酒の酔いが深くなる頃に"娘がえり"が始まります。
「お母さん(祖母)は私のことなにも理解してくれない。」
ダダをこねる様はさながらおやつを買ってもらえない5歳児を見るようで、
「大人もこんな風に子どもにかえってしまうのか。」
と衝撃を受けたのを覚えています。
「あんた、息子の前なんだからしっかりしなさい。ばあちゃんが、ちゃんとあんたの話聞いてあげるから。」
祖母も自分の娘をなだめますが、どうにもならない状況に頭を抱えてしまいます。
祖母に打ち明けた、僕のセクシュアリティ。
ある夜のこと、
「ばあちゃん、お母さんがこんなことになったの、たぶん僕のせい。」
僕が話すと、不思議そうな顔をして祖母がこちらを見ます。
「なにがあったのさ、話してごらんなさい。」
「実は僕ゲイなんだ。男の子が好きなの。お母さんは前から大変そうだったけど、この話をしてから余計に考え込むようになっちゃったんだよね。」
「そうなの…。もうばあさんだから、私もあんたの話よくわかってないかもしれないけどね、聞いて。自分の好きなもの信じて生きていきなさい。大変かもしれないけどね。気にしなくていいの、あんたはあんたでがんばって。」
――正直、びっくりしたのをいまでも覚えています。
80歳手前のお年寄りから出てきた言葉とは到底思えませんでした。
ある日にはたまに「ひ孫は見れないのかいな~」本音が出ることもあったけれど、ある日には少しボケが始まってきたことを気にしていたけれど、僕にとって祖母は、とうきび畑の中を導いてくれたあの頃の祖母のままでした。
三世代で立ち向かった、大学受験。
苦労はありながらも僕の高校生活は過ぎ、男の子との叶わない恋にしっかりと破れ、大好きだった部活の最後の大会も終わり、受験生活が始まった高3の秋。波乱まみれの息子を脇に、母も決して元気ではなかったけれど、僕が寄り添えるときは母に寄り添いながら、祖母も僕たち親子の味方でいてくれて、なんとか受験を乗り越えたのを覚えています。
ハードな環境ではあったけれど、できることは全力でやった。受験の日、僕は小学6年生からの夢だった北大を受験し、目標に向かってまっしぐらに問題を解いていきました。
――結果は、不合格。
後から分かったことですが、合格点にわずか2点、及びませんでした。
神はどこまでも残酷だ、と僕は思いました。
僕の心を挫いたのは、身内だった。
しかしそれでもまだ僕の心は折れませんでした。予備校に通わせてもらって、来年の春、誰よりも勉強できる北大生になって入学する。予備校も大学も、学費は大好きな祖母が用意してくれていました。
合格できなかったことは悲しいけれど、現実は受け止めて頑張るしかない。しかしそう思えていたのは、息子と祖母だけだったようです。
母は僕の受験落ちを機に、酒もたばこも量が増え、いっそう精神状態を悪化させました。母子とも久々に地元へ帰り、祖母の家で数週間過ごすことになりました。
「ごめんね、僕頑張るよ、もう1年、負担かけるけどよろしくね。」
母にはその言葉が届きません。ケンカが多くなり、祖母の家でも夜な夜なふすまを蹴ったり、母の精神不安定は、より暴力的になってきました。
そして当時の僕はもう1つ、心にもやもやを抱えていました。それは、大好きな母方の祖母ではなく、父方の祖母のこと。僕が2,3歳の頃に祖父と離婚して以来、数年に1度会うような関係性でした。
父いわく、祖母も孫の受験を気に掛けてくれていたようで、だからこそ、不合格だったけれど電話で報告して「あと1年頑張るよ」と伝えなきゃ。そう思って2,3年ぶりに直接電話を掛けました。
「あらぁ、そうだったのね。大変だったわね…。」
本当にひさびさに聞く祖母の声。
"小さい僕を捨てていなくなった人"と思っていたことを少し反省しました。
「応援しているわ。受験って大変って聞くからねぇ。そういや親戚の○○くんも、知ってる?何年か前に北大目指したんだって。」
「え!そうなんだ。」
「いま、医学部かな?頑張ってるらしいわよ。あとあなたとハト子の○○さんも北大だって、会ったことないかしら、私の身内ってじつはみんな優秀なのよ。同じ遺伝子があなたにもあるから、あなたもめげてないで頑張るのよ。いい報告まってるね。」
――何かが違う、と感じた。
父方の祖母は、僕が苦しいときも、心が折れそうな時も、何も知らないのに。それがいまになって、祖母の身内自慢を聞かされて。祖母の手柄になるために北大を受験をしたわけじゃ当然ないわけで。昔から祖母は他人を利用して自分の地位を上げたり、自分の持病を自慢するかのように不幸をひけらかすようとする、少し関わりづらい人でした。
どうして自分のつらさは誰にもわかってもらえなくて、
自分の努力はぜんぶ人に取り上げられなきゃいけないんだ。
そんな僕のもやもやを尻目に、母は変わらず毎晩泣きわめいて人に当たり散らし、(僕が大好きなほうの母方の)祖母もそれを止めることができません。母を制止しようと入ると、母は僕に「もういやだ。あんたに言われる筋合いなんて。」と心無い言葉を浴びせます。
――心の糸が、ぷつん。と切れたのを感じました。
「もういいよ!!どいつもこいつも!!」
5年に1回も怒らない孫が怒っている。祖母が慌てふためきます。
「だから!!みんな自分の言いたいことばっか!!そうやってせっかく頑張ろうとしてる僕の心をへし折って!!」
「僕なんて!!生まれてこなきゃよかったのに!!」
――あっ、しまった。
「そんなこと言うんでない!ばあちゃんはね!!あんたが生まれてどんだけ喜んだと思ってるの!!お母さんだって喜んだんだよ!お母さん!!しっかりしなさい!あんたも自分の息子にこんなこと言わせて!!」
祖母が僕の横で咄嗟に叫んだ声が、トンネルの向こうの、遠くで鳴っている音のようで、僕はただ、母と祖母に囲まれて、搔き暮れる意識もままならないまま、涙を流すことしかできませんでした。
少なくとも怒りの矛先を考えれば、祖母の前で言うことではなかったはず。いまでも、胸が苦しくなる思い出です。
近づく、祖母との別れ。
壮絶な受験体験から、高校3年間を母子で過ごした家は引っ越し、親子それぞれに個室がある家へ住むことになりました。親子の適切な距離感と、学習に適した環境を手に入れるためです。
浪人生活は人生で一番と思えるほどに快適な1年間でした。祖母も変わらず札幌へ通ってくれました。予備校では講師やチューターさんに恵まれ、大人に手厚く面倒を見てもらえる経験が僕にとっては新鮮で、すくすくと成績を伸ばし、難なく北大の合格を勝ち取りました。たしか当時の成績は東大も射程に収めていたと記憶しています。
高校時代とは一転して穏やかな受験生活を乗り越え、ついに念願の大学生活が始まりました。北大での4年間は、誰もが当たり前に持っていて、でも僕はいままで手に入れることができなかった、"自由"というものを取り戻す日々の始まりでした。
そして大きな変化が訪れた、そのきっかけは、大学3年の春に訪れた、大好きな祖母との突然の別れでした。