上記のブログを読み、自分がかつてうつ状態で苦しんでいる時に、身近な人から「全然具合悪そうに見えないし、もっと病人らしくしたら?」と言われたことを思い出しました。
おそらく、そこには嫌悪の感情があり「あなたに配慮する覚えはない」というメッセージだったのでしょう。
「共感」、ASDを語る上でこの“共感”という言葉を欠かすわけにはいきません。
DSM-5でも、複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応のおける持続的な欠陥がありと記されています。
共感とは人と人を繋げ連帯感を生み出すポジティブな側面がありますが、ASD者の場合、共感に対して持続的な欠陥があることが取り沙汰されています。
共感が難しい、してもらえない当事者は合理的配慮を受けることが困難になり、支援が乏しい状況になることが危惧されます。
ただ、人間は根本的に「好き、嫌い」の感情が行動を左右する強い原動力になることは確かでしょう。「好き、嫌い」の影響を緩和し、支援を得られる仕組み作りは欠かせません。
上記を読んで社会の残酷さを痛感します。「そのままのあなたで生きることは許されない」というメッセージを感じます。
社会と関わる時は、ずっと仮面を被って自分を偽り続けて生きることは、まさに「生きづらさ」の象徴と言っても過言ではないでしょう。
自分の場合は、そのような状況に陥ったら「自分はなんで生きているんだろう?」という苦悩に苛まれるでしょう。
「聞き分けのいい障害者」を世間から押し付けられるなら、自分はこの社会に努力して存在したいとは思わないです。おそらく世間と距離を取り、社会との関わりを最小限の抑える方策を選びそうです。
自分は過去記事でこう書いていました。
過去記事を振り返って、自分はまさに個人モデルで障害を考え、社会に適合できないのは「障害を持つ」自分自身が悪いのだと罪悪感を持ち続けていると思いました。
そこに至る経緯は、社会から浴びせられた「環境のせいにするな」「努力不足」「自己責任」という言葉をまともに吸収してしまったことも大きな要因としてありそうです。
自身に内在化されてしまった「そのままのあなたで生きることは許されない」といった社会から浴びせられた呪いのメッセージを癒しながら、「ダイバーシティ&インクルージョン」の文脈を発信を通して作り上げる必要がありそうです。
【参考HP】