発達障害はフリーランスにならざるを得ないのか?
(カバー写真は筆者の初代のノートパソコンであるDELL Inspiron710mで2006年撮影。アメリカ留学直前に父親に買ってもらいました。3年後の2009年からこのパソコンでフリーライター・校正の仕事を始めました)
筆者の記事に「スキ」をしてくださった方が感謝申し上げます。この間に、先日のまた記事をご購入いただきました方もいらっしゃいましたことを、この場をお借りして心より御礼申し上げます。
さて、これまでWAIS-IVの結果についての記事が投稿してまいりましたが、本日は筆者のプロフィールの一部にご紹介させていただきたいと思います。
現在はフリーライター・校正 生活費で赤字
筆者は1986年(昭和61年)生まれの34歳で、あと1か月足らずで35歳です。現在は、フリーランスでライター(ウェブが中心、取材経験は少しだけあり)、校正(文字の間違い探し)をしています。ここまでの道は紆余曲折です。
一人暮らしで、ここ1年ほどの月収は5万円~7万円程度。近くにある実家で夕食を食べさせてもらうこともありますが、家賃や食費だけで赤字です。
校正は一般的には、誤字脱字などのミスの見落としも多いADHD傾向のある人には向いていないところがあるかもしれません。一方、完璧主義のASD傾向があり、あまり人が気づきかないような細かい文字のミスなどに目が行きやすいという点では、校正は向いているところもあり、複雑です。
定型発達として育った筆者の仕事の夢
のちに生い立ちで説明しますが、平成初頭に小学校生活を、平成中盤に中学校・高校時代を過ごしました。筆者の夢は幼稚園までは鉄道の運転士、小学校3年から自動車に興味を持ち始めたことから、車のデザイナーでした。さらに、中学3年の時に建築家を目指すと決め、その当時から第一志望の大学も決めていて、高校で理系に進みました。
大学受験失敗 定型発達の人生レールから完全に外れる
しかし、大学受験で、第一志望の大学(地元のある国立大学)を目指したものの失敗。1年の予備校での浪人生活を経るも、また失敗してしまいました。
その後、「環境を変えたい」と両親に伝えて、アメリカの大学に留学することになりましたが、アメリカ留学先でも、TOEFL(TOEICを行うETSが行う留学生向けテスト)で大学が要求する点数がなかなか取れず、卒業単位が取得できる学生の要求点数に達するのに9か月もかかってしまいます。ここまでの失敗の連続で、アメリカでうつ病と診断され、2006年12月の一時帰国時に心療内科でうつ病と診断されました。
学費を補うために日本帰国時に工場系のアルバイトなどに手を出すも、すぐにクビになったり、怒鳴られてばかりで続けられなかったことが多々ありました。
就活せず留学中退 工場アルバイトも10日でクビ
その頃、筆者の同世代の多く(定型発達の人)は、大学卒業をひかえ、就職活動真っ最中でした。彼らは2008年前半に、リーマン・ショックを逃げ切るかのように内定を取っていきましたが、自分はアメリカの大学の卒業予定が「2011年以降」と大幅に遅れを取っていました。さらに、州立大学であるものの、学費は非常に高く、うつ病も悪化し、2009年1月にアメリカの大学を中退(書式上は休学)しました。
具体的な仕事も決まっておらず、とりあえずアルバイトをしなければと思い、クリーニング工場のアルバイトで採用されましたが、10日でクビに。
自営業ながらも初期投資もいらないフリーライターに
小学校低学年のころ、筆者は、父親が買っていた鉄道関係の本などの読書が好きだったや、留学時に、Wikipediaの鉄道関係など雑学的な記事の一部を書いていたことから、ライター業に興味を持ちました。また、自営業でありながらも、農業や飲食店、カメラマンといった初期投資に多額の費用が必要な業界でもなかったことや、無資格でもできるということも理由でした。また、両親からも働くようには言われていたものの、サラリーマンになることは期待されてはいませんでした。
2009年6月にブログのライティングの仕事に応募し、一旦は採用されなかったものの、採用されて、1文字0.5円以下という金額ながらもライターの仕事を始めました。その後、名刺を作り、大阪にある「関西ライター勉強会」(現在は廃止)というライターの勉強会で名刺交換して、大阪の編集プロダクションからコンビニ本のゴーストライティングの仕事をいただきました。
一度目の発達障害の診断を受けたのこの頃でした。2010年7月から日本で一人暮らしを始めます。
不安定ながらも人脈で仕事をもらう
2010年に、フリーランスが集まる出版関係の労働組合(現在は退会済み)で、校正の仕事を知り、個人学習塾を経営する方のところで校正の仕事の手伝いをしたり、労働組合で受注した仕事で、校正の仕事を手伝ったりしました。こうした人脈の仕事のおかげで、ボロボロの履歴書を見せることなく、仕事が得られた時期もありました。
リピートしてもらえないことも
とはいえ、フリーランスは不安定。人脈でもらう仕事だけでは尽きてしまいます。
さらに、定型発達の人なら安定してもらえるはずのフリーの仕事も、ADHDのせいか、ミスも多く、「もうこんな人には頼まない」と、リピートしてもらえないこともあります(クライアントから直接言われるわけではありませんが、そのような雰囲気でリピートがなくなります)。
不採用ばかりで就労継続支援A型で働くもパワハラ
フリーはやはり不安定です。特に筆者のような目立ったスキルのない人は厳しいです。
2010年に国民年金で障害年金を請求したこともありましたが、日本年金機構から却下されました。ハローワークにも何度も通い、障害者雇用でも求人に応募しましたが、ブランクだらけの履歴書で不採用ばかりでした。
そこで、採用人数が1人、2人ではなく10人といった感じでとても多い、2012年に就労継続支援A型事業所に応募すると採用されました。
ところが就労継続支援A型では指導員(上司)らのパワハラを受けて、4か月しか続きしませんでした。就労継続支援A型は「何でも屋」のところが多く、慣れても畑違いの仕事に配置転換されることも多く、WAIS-IVで処理速度が低いことからもわかるように、就労継続支援A型に多い軽作業的な仕事でも遅さやミスが出てしまいます。
フリーランスでも仕事先では意思疎通でトラブル
2012年には一時的に編集や校正の仕事が入ったりしましたが、2013年春には激減。それでもフリーを続けましたが、ミスや不安定さがありました。フリーだと当然ながら障害をクローズで働くことになりますが、会社に出向いて働いていた時もありましたが、やはり単一の指示でないときは混乱してしまい、コミュニケーションでのトラブルやミスも多々ありました。
フリーランス ⇔ 就労継続支援A型の繰り返し
その後、2017年~2019年にも別の就労継続支援A型事業所でも働きました。このときは、2018年夏ごろにかなり安定した気分で働けたこともありました。しかし、2019年には配置転換。ある指導員にいろいろと言われてばかりで、関係もギクシャクして、働き甲斐をなくし、辞めました。
もう就労継続支援A型はせず、フリーランス一本に
2019年10月から、フリーランスに戻りました。一時期はUber Eatsなどの配達員もしましたが、「低評価」も多数付き、今は辞めています。
現在は、毎週1回のオンラインの異業種交流会にも出ながら、人脈からの仕事を得て、フリーランス一本で働くことにしました。とはいえ、その人脈からの仕事も最近はほとんど入っていません。せっかく入っても、ミスのせいか、1回限りでリピートのない仕事も多いです。入ってくる仕事も非常に安いので、「ワーキングプア」です。
2021年11月からはまたうつ病がひどくなってしまい、午前中は寝込むことが多いです。あまり仕事もできなくなって今に至ります。
在宅フリーランスにならざるを得ないところも
長文となりましたが、筆者のこれまでについて自分なりにまとめました。紆余曲折しましたが、自分は特別支援学校や特別学級ではなく普通学級で、発達障害に気づいたのも大人になってからです。今の子どもたちような支援は受けられていませんし、両親も定型発達として育ててきました。
1. 大学受験で失敗。浪人、留学時のテストで大きく出遅れ
2. 就活しないまま、クローズで社会に出る
3. 履歴書はボロボロなので不採用続き
4. 採用されやすい作業系アルバイトで採用されても、怒鳴られたり、すぐにクビになる
5. 十分な社会経験は積めず、履歴書はボロボロで、障害者雇用でさえ不採用ばかりに
6. 採用されやすい就労継続支援A型を選ぶも処理速度が低く、配置転換ばかりで失敗
7. うつ病もあって、朝が非常に弱く、寝込むことが多い
8. 安くて不安定な在宅フリーランスに
筆者のように小さい時から支援は受けられず、失敗ばかりで十分な社会経験を積めないと、定型発達でさえ生計を立てるには楽ではないフリーランスを選ばないといけないところもあります。