ASDの女の子ってどんな子供?
こんにちは、ねるです。
今回はなかなか珍しいらしいASDの女の子はどんな子供時代を過ごしてきたのかを記事にしたいと思います。
女の子の発達障害の本もあるといえばありますが、けっこうほんわりと書かれていて具体的な困りごとがわかりづらいと思います。特にASDは男の子と比べて女の子はあまり診断がつきづらいので、余計に困りごとが多いと思います。
私自身の子供時代の話なので、有料にします!
まず私は言葉は遅くありませんでした。ですが、歩くまでに少々時間がかかったそうです。
幼稚園は年中、年長と通いました。本当は年少の時も通ったほうがいいのではないかと母は思っていたそうですが、祖母の強い要望で年中、しかも隣町の幼稚園という家族関係の事情も含めつつの判断です。
基本的に幼稚園では本棚の絵本を片端から読み漁り、外に出て遊ぶことは無く一人遊びをしていました。
たまに外でみんなでダンスや体操をしましょうという事があると思いますが、私は参加せずに滑り台の上からみんなを眺め、一人で楽しんでいました。
たまに友達?からおままごとに誘われますが、基本おかあさんにはなれず、ペットの犬か隣の人(近所のおじさん?)でした。
給食は偏食がひどかったため、いつも残してしまい、毎日給食室へ「残してしまいました」とお皿をもって報告をしていました。
年長さんのころには、保育士さんも手を焼いたのかむりやりダンスや体操の輪に入らされましたが、そのころから何となく死にたいという気持ちが湧いてきました。
小学生の頃は、勉強は6年生までオール100点くらいでした、むしろ授業がつまらなくてずっと絵を描いていた記憶があります。
一年生の時に傘を10本以上無くして大半は出てきませんでした。忘れ物も多く、机の中はいつもごちゃごちゃ。夏休み前に机の中を整理したのですが給食で残したオレンジに緑カビが生えたものがでてきました・・・
保護者向けのプリント等もなかなか持ち帰れずに親が困っていた記憶があります。
給食は偏食と食べるのが遅いせいもあり苦痛の日々でした。
私はトマトが苦手なのですが、トマトの日はみんながトマトを食べるため、においがつらかったです。
そして友達について。
場面緘黙症の子と、シンパパの子と私の三人でいつも一緒に遊んでいましたが、要するにスクールカーストでは最下位の方。弱い子供でした。
いわゆるごっこあそびはしていました。ある時から支配したい子に目をつけられて、その子の指示に従って遊んでいました。ただただ人のいう事に従う、それだけ。
家ではひたすら図鑑を見ていました。動物、昆虫、恐竜、海の生き物、両生類爬虫類、宇宙など・・・もともと祖父が理科の先生だったため理系には興味があり、夏休みの自由研究はいつも祖父にこの実験をしたい!と頼んでいました。
中学年、高学年になるといわゆる恋愛の話が出てくるのが定番だと思いますが、私は特に異性で好きな人はおらず、話を合わせるために一応○○君が好きという設定だけ作っておきました。特に友達から告白を進められるようなことは無く、問題は起こりませんでした。
そしてじぶんの見た目とセクシャリティについて。
小学校中学年から高学年にかけて、自分の性に違和感をかんじるようになってきました。
まず女の子の見た目というものをどのようにしたらいいのか?ということがさっぱりわからず、髪の毛もショートカットで、服も青や水色やグレーや黒など、いわゆる男の子が着るようなものを着ていて、とうぜんスカートは履かずパンツスタイルでした。
しかし私の中で多少はおんなのこに見られたい部分はありました、どのあたりかというと、病院の先生に坊やと呼ばれたり、美容院で男の子の髪型にされたりと勝手に男にされるのが嫌だという、そこだけです。
女の子は、おしゃべりが得意で和を保つ役割に、いわゆるジェンダーというものになるとおもうのですが、周りの女子はみんな女性の役割を担う土台ができているのに私は何か置いてけぼりな気がしていました。
でも私は無意識ながら社会的な女になりたくないという気持ちは強く、このころから母に結婚はしないと何回も言い始めるようになりました。
それから死を考えることについて。
結構特殊な環境に育ったため、常に死にたいという言葉が頭の中にあり、小3の時にホームレスになりたいと思い段ボールを集めていた記憶があります。しかし具体的なホームレス像が浮かばずにその目的はあっけなくなくなりました。
死にたいというのは、人の中に居たり親に勉強しなさいとか話をきちんと聞きなさいとか、何かしらストレスを感じていた時に「5分後に死ぬ」「10分後に死ぬ」と思うと200%の力が発揮できて刹那的ですが今を生きられるという変な仕組みがあったため本当に死ぬことについては考えていませんでした。
ただ、実家にいる以上親の支配下からは逃げ出せないことはわかっていました。だから県外の大学へ進学して20歳になったら自殺をすると決め、たとえつらいことがあっても20歳で死ねる、20歳までがんばれば私は無になれると自分を奮い立たせて、日々200%の力で生きてきました。
これは最近知ったことなのですが、自傷行為を常日頃していました。
口の中を噛んで血を出す、指の皮をちぎって血を出す、髪の毛を抜く(抜毛症)などですが、すべて母にみっともないからやめなさいと言われてますます死にたくなりました。
特に手足のチックがひどく、一回総合病院へ行き脳波の検査をしました。睡眠薬を飲まされて寝ている状態で脳波を図りたかったのだろうと思いますが、私自身睡眠薬がすぐに効かない体質で、脳波がうまく図れず、当時は発達障害の概念もなく、結果はよくわかりませんでした。
毒親の話は別の記事にて書くので、ストレスに関してはこれくらいにしておきます。
中学生になったとき、最初にぶつかったのが制服のスカートです。
いままで着たことのないスカートに何かしらジェンダーを押し付けられ、また周りの女の子も男子を男という生き物として見始めて着飾るようになっていきます。
私はあいかわらず男のような服ばかり着ていて、男に女として見られようだなんて気持ちはさらさらありませんでした。
勉強はできたほうで、高校は進学校に進みました。
高校も同じくみんなが色気づくのに私は絵や漫画を描くことと薬学部を目指すことしか頭になく、また周りの人の顔が覚えられず、クラスメイトをほとんど覚えていない状態で卒業しました。
ここからはわりとぱっと見普通になってきました。
大学時代にうつ病になり、精神科の門をたたき、社会人になって社会不適合になるのは大人になってからの話なので、この辺りは無料公開の記事で少しづつ書いていきます。
ご購入いただきありがとうございました。質問等がありましたらコメントをどうぞ!