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すっぱいブドウ

むやみに定型発達者と発達障害者という二項対立で物事を語るべきではないと思う。
だが、今回は便宜上あえて定型発達者が多数派を占める世の中が存在すると想定して話を進めたい。

私は発達障害と診断されて以来、自分と世の中のものの感じ方の違い(認知のズレと呼ぶべきかもしれないが)に目を向けざるを得なくなり、その溝の広さ、深さに人知れずショックを受けてきた。
時には「そんな世の中に歩み寄り、理解しようとすることにどれだけの意味があるのか」と感じてしまうようになった。
それは自分が多数派に近づくことができないから、多数派の世界は価値がないものだと考えるようになるという、すっぱいブドウの論理そのものである。

そんな私も、定型発達者が多数派を占める世の中を理解しようとすることを否定する態度は人前で見せないようにしている。
おかしな言い方だが、そんな態度を取ったらどうなるかという「想像力」は私でも既に身につけている。

では結局のところ、多数派の世の中に対して理解は示しつつ、完全にそれに服従することもない生き方を確立するにはどうすればよいのだろうか。
ちょっとやそっとで答えが出る問題ではないが、今後もこの問いに向き合っていきたい。

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