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第34話 気迫

 焔の正拳がさく裂した後、財前は苦痛の表情を浮かべてその場に倒れ込んだ。喧嘩を見守っていた全員が凍りつき、言葉を失っている。私も目を大きく見開いたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。

「は、速すぎる…」

 私が見る限り、先に拳を振り上げたのは財前だった。だが、焔はそんな財前の拳の軌道を読んでいたのか、右足を踏み込んだのと同時に思いきり真っすぐ正拳を繰り出していた。驚いたのは拳の速さ。剣道をしていて動体視力には自信があるけど、それでもまったく拳の軌道が見えなかった。つまり、それだけ速く拳が繰り出された、ということだ。

 驚きで固まる私をよそに、ヤトがふわりと飛び立つ。

「やった!焔の勝ちだ!」

 喜びに沸き立つ声が、凍りついた空気を引き裂く。だが、次の瞬間、喧嘩を見守っていた紅牙組の男たちの怒号が一斉に響き渡った。

「この野郎…」

「…よくもやってくれたな!」

 瞬く間に場を支配する殺気。ただならぬ気配を感じ取った私は、反射的にヤトを抱きかかえる。

「ど、どうしたの?凪」

 三十人以上はいるだろうか。周囲を囲む男達は今にも襲い掛からんばかりの勢いだ。

 焔は強い。

 だけど、もし全員が一斉に襲い掛かったら――。

 そう思い、不安げに焔を見るが、彼は微動だにしない。腕を組んだまま、まるで何も起きていないかのように、冷静に周囲を見渡している。余裕のある態度が不思議なのだろう。財前も座りこみながら焔の方をじっと見据えていた。

「やれやれ…」

 焔は呆れたように小さく息を吐き、男たちを見渡す。

 次の瞬間、紅牙組の男たちは拳を振り上げ、焔に向かって一斉に足を踏み出した。

――焔さん!!

 心の中でそう叫んだ瞬間。

 焔の体から目に見えるほどの「気」が迸ほとばしった。それは、まるで灰色の空気が、揺れながら体から吹きだしたかのように見えた。得体の知れない圧のような空気が、一瞬にして場を包み、紅牙組の屈強の男たちが一斉にひるむ。

 私はその「気」に覚えがあった。以前、焔に稽古をつけて貰った時にも感じたことのある、あの圧倒的な存在感だ。だけど、今目の前に広がっているのはあの時の何倍も強い、狂気のような凄まじい力だった。

「ヤバい!焔!ちょっと待っ…!!」

 ヤトが叫ぼうとした瞬間、ドデカい声が大広間に響く。

「てめえら!やめやがれ!」

 声を合図に、男たちが足をピタリと止める。声の主はよろよろと立ち上がろうとしていた財前だった。

「俺たちは今、男の喧嘩をしてたんだ!そんで、俺が今負けちまった。それだけの…こと、だぜ」

 感傷的な余韻を感じさせる財前の言葉。それに応じるかのように、男たちは振り上げていた拳をゆっくりと下ろし、顔を伏せた。中には涙ぐんでいる者さえいる。

 紅牙組って…。

 何というか、熱血というか、スポコン魂を感じさせるというか…。

「それに、喧嘩には負けちまったが、知りたかったことは知れた」

 知りたかったこと…?

 意味深な財前の言葉に、私とヤトは顔を見合わせる。

「焔。それにちんちくりんと、そこのカラス。俺の部屋に来い。今からだ。話がある」

 だから、ちんちくりんって言うな!

 心の中で思わず突っ込みを入れる私を尻目に、財前はパンパンッと手を叩く。

「さあ、お前ら!喧嘩は仕舞えだ!持ち場に戻れ!」

 財前の合図で、男たちは次々と大広間を後にする。切り替えの早さに戸惑いつつ、焔を見た。彼が微かに頷くのを確認し、私もヤトを抱えたまま財前の後を追う。

 次の瞬間、歩き出した私たちの前に花丸が立ちはだかった。何やら言いたげな表情を浮かべているが、彼はただ目を伏せ、戸惑った様子で佇んでいた。

「どうした?お前、今日も飯番だろ?」

「そう…なんですけど。財前さん。やっぱりその左手、もう一度見せてくれませんか?」

 財前の眉がピクリと動く。私は反射的に財前の左手を見ようと首を傾げるが、彼はすぐに左手を和服の袖で覆い隠した。

「いいって、いいって。こんなもん、風呂入りゃあ治るからよ」

 軽く笑って答える財前。花丸は一瞬心配そうに目を細め、気まずそうに頷いてその場を去った。財前はそんな花丸の背中をしばらく見つめていたが、再び歩き始める。

「…左手?財前のヤツ、左手を怪我してたの?」

「多分な」

 訝し気に尋ねるヤトに焔は歩みを止めず、淡々と答える。

「多分って、焔さんも気付いてたんですか?」

「恐らく、利き手が左だ。一度、左手で振りかぶろうとして、すぐに右手に替えた。左手がほとんど動かないんだろう」

「じゃあ本当に…?焔も容赦ないなあ。怪我人相手に」

「喧嘩を売ってきたのは向こうだし、財前にとって喧嘩は一種の美学なんだろう。中途半端に手加減する方が余程無礼だ」

 焔は迷いなく足早に歩き続ける。私は無言で彼を追い、歩みを速めた。静まり返った廊下には、私たちの足音だけが響き渡っていた。

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