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第32話 困惑
夜が明けた朝。私は屋敷の縁側に座っていた。今日は快晴。心地よい風が吹き抜け、空はどこまでも青い。昨日は任務感満載でSPTの制服を着ていた私だが、今日は白い割烹着に身を包んでいた。組長を待つだけの今、特にすることがなかったので、掃除を手伝うことにしたのだ。
昨日、紅牙組の門をくぐった時は一触即発のような空気になったものの、不思議と私たちは紅牙組に溶け込んでいた。焔は料理が得意のようで、昨日の夕食時には自ら台所へ行き、こんなことを言っていた。
「おかずはポテトサラダか。塩昆布を入れるのはどうだ?塩味と旨みが絶妙に合う」
昨日の焔の言葉を思い出して、私はふっと笑みをこぼした。そうしてできたポテサラはとてもおいしくて、私もヤトもおかわりをした。
「また食べたいなあ。あのポテサラ…」
そう呟きながら、私は空を見上げる。こうしていると、元いた世界と全然変わらない風景が広がっているようで不思議な感覚になる。お父さんやお母さん、真子、ひなたは元気にしているだろうか。私が帰らないことを気に病み過ぎていなければいいけど…。
そんなことを考えていると、どこからか威勢のいい声が聞こえてきた。誰かが賑やかに話しているのだろう。私はパッと立ち上がり、床に置いた雑巾を手に取る。
「えっと。続きはこの縁側の奥の拭き掃除かぁ」
俯きながら歩いていると、ふとある物が目に入った。黒い革製のパスケース。見るからに男性ものだ。紅牙組の誰かの落し物かな…?そう思って私は特に意識せずにパスケースを開く。すると、そこにはひとりの男性の写真が挟まっていた。
「これって…。花丸さん?」
思わず声が出た。いや、良く見るとかなり似ているが別人のようにも見える。男性は黒いタキシードに蝶ネクタイ、白い羽が付いたハットを被り、トランプを手にしている。まるでマジシャンのような恰好をしていた。
「この人は…?」
私が思いを巡らせていると、突然呼びかけられた。
「おい。何してやがる」
声に驚いて振り返ると、そこにいたのは紅牙組の若頭、財前だった。和服姿で腰に刀を差し、壁に寄りかかっている。相当酒好きなのだろう。財前の顔は昨日と同じくほんのり赤みを帯びていた。
「あの…。これ、廊下に落ちてて」
私はさっき拾った黒いパスケースを財前に見せる。すると、財前は目の色を変えて私に歩み寄り、奪うようにパスケースを取った。突然のことに驚く私。このパスケースこの人のだったのか。ということは、あの写真の男の人は…?
「ああ。拾ってくれたのか。悪りぃな」
そう言ってよろめきながら歩く財前。私は、気付いた時には財前に声をかけていた。
「あの!」
財前が足を止める。
「どうして花丸さんを紅牙組に入れたんですか?もしかして、そのパスケースの男の人と似ているから放っておけなかった、とか…?」
私の問いかけに、財前がゆっくりと振り返る。だが、その表情は険しく鋭い。私は身をすくめて後ずさりするが、二歩ほど下がったところで財前は素早く距離を詰め、私の腕をグッと掴んだ。
「お前にひとつ忠告しておくぜ、ちんちくりん」
ち、ちんちくりん…!?また言われた…!
困惑する思う私を尻目に、財前は突然私の腰を引き寄せ、にやりと笑った。
「この世界じゃ、余計な詮索は命取りになる」
グイッと財前が一気に顔を近づけてくる。私は驚きで体が固まり抵抗しようと手をバタつかせる。だが、財前はこの状況を楽しんでいるのかニヤリと笑みを浮かべたままだ。
「すみません、余計なこと聞きました…。あの、離してください!」
「へっ。離して欲しかったら、力づくで離れてみやがれってんだ」
カチン。完全に舐められてる!
私は渾身の力を込めて振りほどこうとするが、財前の力は予想以上に強く腕から逃れることはできない。
「どう命取りになるのか、今からじっくり、この俺がわからせてやろうか?」
そう言って財前は私の顎を掴み、さらに顔を近づけてくる。
う、嘘でしょ!?
恐怖と怒りが入り混じり、冷たい汗が背中を伝う。気が付くと、私は無意識に拳を握りしめていた。そのまま振りかぶろうとした次の瞬間―。
「何をしている」
低く冷たい声が響き、私と財前は声のする方を見る。視線の先には焔がいた。
「ちっ。邪魔しやがって。せっかくいいところだったのによぉ」
財前は舌打ちしながら、再び私に顔を近づけてくる。あまりに近い距離感に、私は恥ずかしさと怒りがこみ上げ、今度こそ思いきり拳を振り上げる。
しかし、鋭い「バンッ」という音とともに、拳は止まる。財前の顔に届く寸前で、彼が右手で正確に私の拳を受け止めていたのだ。
「意外と気が強えじゃねえの。ちんちくりん」
う…。読まれている。
私は一層悔しさが込み上げていた。竹刀さえあれば、こんな人に絶対に負けないのに!
「あんたも、そんな怖え顔するんだなあ。焔」
私は焔に視線を向けて、一瞬ビクッとした。表情は冷たく、氷のような視線で財前を睨んでいた。
「なるほどねえ」
財前は焔に向かって挑発的な笑みを浮かべ、こう切り出した。
「どうだ?焔。お前、俺と賭けをしねえか?」
「賭けだと?」
焔は、眉ひとつ動かさずに答える。
「そう。今から俺とお前で男の喧嘩をする。俺が勝ったら、このちんちくりんは俺がもらう。そういう賭けさ」
はい!?一体何をどうしたらそういう考えになる?
腹立たしさで胸が熱くなる一方、腕を掴まれて身動きできないのが情けない。すると、そんな私を再び財前はニヤつきながら見つめてくる。
「良くみたら結構可愛いしな。それに俺は、気が強え女は嫌いじゃねえんだぜ」
言わせておけば…!
焔さん、気にせずに今、この人をぶちのめしてください―。
そう心の中で叫んだ私だったが、彼の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「いいだろう。受けて立つ」
私は驚いて息を呑んだ。財前は嬉しそうに口角を上げる。
「私が勝ったらもう凪に構うな。決して」
「面白れえ!」
財前は私を離して歓喜の声を上げた。彼は大きく手を叩きながら大股で廊下を勢いよく歩き出し、組員たちに向かって呼びかける。
「野郎ども!これから喧嘩だ!全員大広間に集まれ!急げ!」
や、やっと解放された…。
胸の奥でホッと息を吐き出し、私はしばらく目を閉じる。三度目の呼吸を終えた時、焔の穏やかな声が静かに耳に届く。
「大丈夫か?」
「は、はい」
「何があった?」
私はさっき拾った財前のパスケースのことを話した。中に挟まっていた花丸にそっくりな男性の写真のことも。
「大丈夫なんですか?殴り合いの喧嘩なんて…」
焔は財前が去った方を見ながら、余裕の笑みを浮かべる。
「心配ない。…まあ、勝てば組長との会話も有利に進めることができるしな。そう思えば、ある意味これはチャンスだ」
自信に満ちた焔の言葉。だが、なぜか言葉とは裏腹に彼の視線が一瞬揺らいだように思えた。それに、焔の言葉を聞いても私の心は晴れなかった。なんというか…、心の引っかかりを抑えられなくて私はつい俯いてしまう。
「凪?どうした?」
私の表情に違和感を覚えたのか、焔が尋ねる。
「なんだか、それでも…。私が賭けの対象にされるなんて、ちょっと複雑というか…」
そう、私の感情が無視されているようでそれが堪らなく悲しかったのだ。まさか賭けの引き合いに出されるなんて。こんなこと思ってもしょうがないんだけど…。それでもどうにも胸が重たい。
もし万が一、焔が負けるようなことがあったとしたら―。
「凪」
名前を呼ばれて顔を上げた瞬間、私は驚いた。焔が申し訳なさそうな顔をしていたからだ。
「すまない」
「え!?いや、焔さんが悪いんじゃなくて…!悪いのは、あの変態スケベな財前さんですから、気にしないでください!」
焦った私は顔の前で両手をパタパタと振った。すると、焔は私の右手を優しく、そしてそっと掴んだ。
「焔さん?」
「これから奴に食わらせる正拳は、君がさっき振りかぶった拳の代わりだ」
私の心臓は大きく高鳴った。焔の鋭く、温かな視線が、私の心を見透かすように射抜いてくる。
「必ず勝つ。信じてくれるか?」
「は、はい…!」
強く頷く私に焔は穏やかに微笑んだ。ほんの数分前、悔しさと怒りが胸の奥を燃やしていた。顔は火照り、握りしめた拳は今も少し震えている。それなのに、今焔の静かな視線が私を包み、不思議と胸の高鳴りが別のものに変わっていくのがわかる。温かい何かが、じんわりと広がっていく。
こ、これは…?
自分でも戸惑う。高揚する気持ちと混乱。心の奥がドキドキと脈打つ。こんな自分を今、この人に見られるのが恥ずかしい。そう思って目を逸らそうとしたまさにその時…。
「焔ぁ~~焔ぁぁぁ~」
小さな声が次第に大きくなっていく。空から声が聞こえた気がして見上げると、ヤトが慌てた様子でこちらに向かって飛んでくるところだった。両翼を激しくバタつかせ、まるで空を裂くような勢いだ。
「焔!喧嘩するんだって!?あの財前と!」
「ああ。今からな」
「大丈夫なのかよ?」
「まったく問題ない。チームHANTOのリーダーらしいところを見せる時だ」
焔は淡々と腕まくりをし、鋭い眼差しを真っ直ぐ前に向けた。そして、静かに歩き出しながら、力強く言い放つ。
「五分で終わらせてやる」