見出し画像

配慮と差別は紙一重?

気遣いでやったこと、言ったことだったのに、
逆に相手を傷つけてしまったり、
相手だけじゃなく、
周囲も不快にさせてしまったり。

なんてこと、ありませんか?

ハラスメントもそうだけど、
自分の主張がどうであれ、
受け手がどう捉えるかが全てなので、
なかなか難しい。

先日、ある出来事を耳にしました。


ワクチン接種3回目、
とある大規模会場での出来事。

親子3人が接種にやってきた。
母親と車椅子の子ども、もう一人の子も一緒。
3回目接種なのでたぶん、二人とも12歳以上。
車椅子の子は、重症心身障害のある子。
もう一人の子は、発達障害があるだろうことが一目でわかった。

接種も初めてじゃなかったし、
母も子ども達も特に変わった様子はなく、
問診を受けて接種も終了した。

接種後の待機場所に入ってきた時、
案内係のAさんがその親子を案内した。

案内した場所は、
会場奥にある、30分間待機する場所だった。

その会場のルールとして、
医師の指示で接種後30分待機になる場合は、
スタッフ間で申し送りの上、
30分の場所に案内することになっていた。

実際その親子は、15分待機の指示だったし、
申し送りがないのに30分の場所に案内していたので、
なんでだろう、ということになり、
リーダーであるBさんがAさんに話を聞きに行った。


Aさんが親子を30分の場所に案内した理由は、
子どもに障がいがあるので、
周りに人があまりいなくて、
看護師さんもよく見てくれる場所の方がいいと思ったから。

一方、Bさんや看護師さん達としては、
医師が15分待機で良いと指示していて、
急変のリスクがあるとか、
特別な対応が必要なわけでもなく、
本人達が希望したわけじゃないなら、
他の人と同じ対応をすればいいだけで、
むしろ、特別扱いする方が差別なのではないか、と。


Aさん、Bさんの考え方、どう思いますか。

Aさんの思い

車椅子の子もいるし、
もう一人の子もじっとしてられないかもしれないし、
スペースが確保できた方が、
周りに迷惑がかからない場所の方が、
その親子にとってもいいのではないか。
という、
Aさんの気遣い、配慮があったのだと思う。

Bさんの思い

障がいがあっても、日常生活を普通に送っている。
母親も二人を連れて外出することにも慣れているだろうし、
特別扱いすることの方が、
その親子をかえって傷つけてしまうのではないか。
障がいのある人もそうでない人も皆同じ。
という、
平等の気持ちがあったのだと思う。



普通って何?
と昔から思っていた。
思うには、
普通多数派
少数派多数派じゃない=普通じゃない
という現象になっちゃってるということ。

人は、多数派を普通と捉え、
普通から外れると、
何か特別な、奇異な存在としてみてしまう性がある。
それが同調圧力を生み出し、
少数派の人間を生きづらくする。

自分が普通から外れると、
途端に不安になるのはそのせいだと思う。
少数派は生きづらい世の中だから。
自分がおかしいんじゃないかと、自己否定的になる。

さらに、
少数派は生きづらいだろうから、
多数派が自分たちの価値観で、
少数派を説得しようとしたり、
自分たちの考えにはめ込もうとする。

でも実はそれは、
少数派は悟っているようなところがあるから、
自分たちの心を見透かされているような、
多数派を脅かす存在なんじゃないかと、
多数派が脅威を感じているからなのかもしれない。

多様性を認める社会に!!
と、いわれても、
社会の仕組み自体が、
すでに多数派を基準に作られているので、
少数派が救われるには長い道のり。

例えば、
婚姻も、子育て支援も、
それができない人が恩恵を受けることはありません。
世の中にはたくさんの、
同性婚したい人だっているし、
婚姻関係になくても家族である事実の人もいるし、
子どもがいない夫婦でも給付金が必要な家庭もある。


一方、生きていくために支援が必要な人たちの枠組みは、
日本はとてもうまくできていると思う。
福祉、介護、などなど。
その対象者は決して少数派ではなく、
社会のどこにでもいる、生活者。
屋内外で不便が多いから、
人よりも助けが必要だったり、
できないことが多かったり。

だから、荷物で両手が使えなくて、
エレベーターのボタンが押せなくて困っていたら、
誰かが押してくれてとても助かった、
というように、
白杖を使う人でも車椅子を使う人でも、
突発的な行動を取ってしまう人でも、
不安で独語が止まらない人でも、
妊婦さんでも、足腰が痛そうな人でも、
困っている人がいたら、手を差しのべる。
ただそれだけでいいんじゃないかと思う。

自分の価値観や物差しで、
こういう人たちはきっとそうだ、
こうした方がいいだろう、
助ける義務がある、
等々という考えのみで行動してしまうと、
ちょっとした誤解を生む。

Aさんの、
きっとこの親子は周りに迷惑をかけるかもしれない、
もしくは周りに迷惑をかけることを気兼ねするかもしれない、
何も困っていなくても、
こういう人達には助けや配慮が必要だという思い込み。
それが差別という誤解を生んだ。

Bさんの、
誰に対してもやっているかもしれないAさんの配慮や気遣いには気づかず、
特別扱いすることの方が差別なのではないか、
障がいがある人もそうじゃない人も皆平等、それが正義、という思い込み。
その考え自体に偏りがあるにもかかわらず。


配慮も差別も、どちらでもないと思います。
周りがとやかくいうことではなく、
当人がどうして欲しかったか。
ありがたいと感じるかもしれないし、
傷ついたかもしれないし、
本人たちにとっては、
どこで待機しようが関係なかったかもしれない。

人には、
その人にしかわからない苦しみや辛さがあって、
誰一人として同じ気持ちで分かり合える、
ということはありません。
たとえ、同じ境遇や環境にあったとしても、
捉え方や感じ方、認知の仕方が違うので、
わかった気になって共感はできません。

それでも、相手を思いやったり、
相手の立場になって考えたり、
想像したりすることで、
お互い気にかけて生きる。
それが大切なんじゃないかと思う。

そうすることで、
多数派とか少数派とかいう概念もなくなり、
誰もが生きやすくなるんじゃないかなぁ。。。

#多様性を考える


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?