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ナルシストは自分が好きな人のことではない

「ナルシスト」という言葉を聞くと、自分のことが大好きでたまらない人のことだと多くの人が思うかも知れませんが実はそうではありません。その誤解を説いておくことは重要だと思うので少し長い講釈となりますがナルシシズムについて書こうと思います。


ナルシシズムについては加藤諦三先生が詳しく解説されていますのでそちらもご覧になってください。



ナルシシズムは自己陶酔のことであり、自己陶酔を持つ人のことをナルシストと呼びます。


自己陶酔とは、自分が他人よりも優れているのだと自惚れることです。

この自惚れを見て回りの人たちは「なんて自分のことが好きな人だろう」と思うわけですが、この自惚れの正体は「自分が好き」という感情とは正反対の劣等コンプレックスです。


劣等コンプレックスとは「自分が他人より劣っている」というコンプレックスのことで、つまり劣等感のことです。

「コンプレックス = 劣等感」として理解している人が多いと思いますが、コンプレックスという言葉は正確には劣等感という意味ではありません。


コンプレックスという言葉は説明が少し難しいのですが、ある体系化された心の状態、心の傾向といったニュアンスです。感情複合とも呼ばれます。

「自分が周りと比べて劣っている」と感じてしまう心の傾向が劣等コンプレックスです。


ナルシストはみな、劣等コンプレックスを持っていると理解してください。

ナルシストは自分が好きで好きでたまらないのではありません。むしろその逆で自分が周りより劣っていると感じ、自分が嫌いで、哀れな存在だという自己蔑視、自己憐憫に苦しんでいるのです。


では、どうしてナルシストが自分が周りより優れていると感じているのかというと、それは反動形成によって抑圧した感情と真逆の感情が形成されるためです。

抑圧とは、受け入れたくない感情を無意識に閉じ込める心の防御反応(防衛機制)です。


自分が周りより劣っているという感情は、とても心地悪く、不都合で、その感情を抱えたまま生きていくことは大変苦しく困難なことです。なので抑圧が起こります。その感情を意識から排除し、なかったことにしたいのです。

しかし、感じてしまった感情はなかったことにはできません。感情というのは感じたままに処理していかないと心の中で黒い煙のようにくすぶり続けるのです。感情を処理せずに抑圧して排除しようとすると心に歪みが生じます。

ナルシストは劣等コンプレックスを抑圧しています。そしてその抑圧は、反動形成と投影によってより強固なものになります。


反動形成は、抑圧した感情と反対と感情を形成することです。抑圧した感情を反対の感情で蓋をして抑圧した感情が表に出てこないようにします。

自分が周りより劣っているという劣等コンプレックスを抑圧すると、自分が周りより優れているという優越コンプレックスが形成されます。この優越コンプレックスこそがナルシストの持つ自惚れ、自己陶酔です。そして、これは自己愛という言葉で呼ばれることが多いようです。

なお、自己愛という言葉は以下の3つの意味で使われているようですので、自己愛という言葉がどの意味を示しているかは慎重に考える必要があります。

  • 自分を大切にすることを、自分を愛すること(自尊心)

  • 自惚れ、自己陶酔(優越コンプレックス)

  • 自己を性的な対象として見ること

通常、自己愛という言葉を聞くとナルシシスティックな意味で使われ、自己陶酔のことを示すことが多いと思います。紛らわしいので本記事では自分を愛することは自尊心と呼びます。ちなみに本来の自己愛の意味は、自己を性的な対象として見ることだそうです。


こうしてナルシストは「自分は周りより優れているんだ」という優越コンプレックスを持つに至ります。彼らの「自分が好き」というのは「自分が嫌い」の反動形成です。

意識上で劣等コンプレックスが排除されても、それは無意識の領域にちゃんとありますので自己蔑視から逃れられているわけではありません。ナルシストは自尊心を持てず苦しんでいるのです。


また、抑圧を強固にするために、抑圧された感情は他人へ投影されます。自分が排除したい感情を外の他人へ押し付けて、さらに自分はそれを批判する側になることで自分の中にそのような感情はないものだと思い込もうとします。

これがナルシストが持つ攻撃性の理由です。

劣等コンプレックスの抑圧により、反動形成として優越コンプレックスが形成され、抑圧された劣等コンプレックスは他人へ押し付けられるのです。


かくして典型的なナルシストが出来上がります。「自分は優れていて(反動形成)、お前は劣っている(投影)」という訳です。


考えてみてください。

自分が好きという感情にいったい何の問題があるのでしょうか?

自分が好きなだけで他人にどんな迷惑をかけるというのでしょうか?

自分が好きということは他人から責めたてられるようなことでしょうか?

ナルシストが批判されて然るべき理由は、自分の外側に対する攻撃性です。ナルシストの本質は自分が好きということではありません。

ナルシストの本質はその攻撃性です。


劣等コンプレックスを押し付けられた他人はたまったもんじゃありませんし、その時の不快感は言うまでもありません。

しかしながら、このような抑圧が必要なほどの深刻な劣等コンプレックスに対して、抑圧という心の防衛反応がよく働かなければその人は鬱的な状態になるのだと思います。

心の平安がある人は「I am okay, you are okay」と考え、
鬱的な人は「I am not okay, You are okay」と考え、
ナルシストは「I am okay, You are not okay」と考え、
絶望者は「I am not okay, You are not okay」と考えるのです。


ナルシストの攻撃性は、いつも分かりやすい形で表へ出てくるとは限りません。

誰かを公然と人格否定したり、暴力で相手を屈服させることはリスクを伴う行為です。

法的な罰を受けるかも知れませんし、矢面に立たたされ周りから批判を受けるかも知れないし、本人がファイトバックする人なら逆にこちらが攻撃されるかも知れません。


なので狡猾なナルシストは、こっそりと陰湿な嫌がらせをしたり、相手を困らせたり、恥をかかせたりする手段を取ります。

また、そのような直接的、間接的な手段でなくとも、他人を心の中で見下したり、他人の不幸や失敗を心から喜んだり(シャーデンフロイデと呼ばれます)することで自分のエネルギーを使わず、楽に劣等コンプレックスを慰めることができます。


しかし、それは所詮は一時の気晴らしで本当に劣等コンプレックスは癒えません。なぜなら先ほども述べました通り、感情とはなかったことにはできないからです。

劣等コンプレックスを癒やすためには自分が劣っているという感情としっかりと向き合う必要があると思うのです。いえ、もっと言えば自分と周りを比較するから劣等コンプレックスが生じるので、比較すること自体をやめてしまえばいいのです。


自分が劣っているという感情は自分を周りと比べることを前提としています。ナルシシズムの根源は自分と周りを比較すること言えます。

では、どうすれば自分と周りを比較することをやめることができるのか?

私はその問いに対する解を持ち合わせていません。

もし私がその解を持っていれば私は全人類のナルシシズムを克服させることができます。加藤諦三先生が「世界の混迷」とまでおっしゃったナルシシズムを克服することができるのなら、これは大変なことです。


無意識の必要性と言いますか、自分と周りと比較することはその人にとって必要だからやっているのです。

だけど、どんな人でも自分と周りを比較して勝ち続けることはできません。社会で成功した人も「運が良かっただけ」「環境に恵まれていた」と言われれば手柄は自分ひとりのものじゃなくなります。世界中の人が誰か特定の個人を一番好きになることはありません。

すべてにおいて、他人と比較して勝ち続けることはないのです。なので、比較をする限り大なり小なり劣等コンプレックスは生じます。


私が思うに、大きな劣等コンプレックスを抱えていない人は、自分の中に灯台といいますか、何か一本、揺るぎない柱のようなものを持っているのだと思います。

そしてそれがないと、自分と周りを比較して自分の存在価値を確認しないと気が済まないのだと思うのです。


私がこの記事で伝えたかったことは、どうしたら周りと比較することをやめられるかではなく、ナルシシズムの克服方法でもありません。

ナルシストとは、自分のことが好きな人ではないということです。

自分のことを愛することができるなら、それは恵まれていることで、とても素晴らしいことだと思うのです。



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