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(短編小説)たっくんのこと

(病棟保育士の方にご依頼されて、脳性まひのたっくんのことを創作しました。たっくんのお母さまに喜んでいただけたことが、私自身の何よりの喜びでした。たっくんはお元気とうかがっています。)

 

「おはよう」
 いつものように、お母さんがたっくんの部屋のカーテンをあけます。春浅い日差しが部屋に差し込みます。
「よく眠れましたか」
 お母さんはたっくんに話しかけます。
「眠れたよ」
 たっくんは、心で答えてお母さんを見つめます。
「たっくん、おはよう」
 お父さんが、にこっとして、ドアを開けてたっくんをのぞきこみます。お父さんが部屋を出ていくと、たっくんは耳を澄まします。たっくんは病気で、生まれた時から自分の力で動くことができないのです。いろんな音が聞こえてきます。食事の音、テレビの音、何度も階段を昇り降りする音、お父さんとお母さんの話し声。あわただしい、いつもの朝です。お父さんが会社に出かけると、家の中は静かになります。聞こえてくるのは、掃除機の音や、ときどき鳴る電話の音ぐらいです。

 窓の景色を眺めるのが、たっくんの日課です。たっくんの部屋は一階です。空も、ポプラの木も、塀からのぞく大きなトラックも、塀の上を歩く野良猫も見えます。電線にはスズメや鳩が、数羽とまっています。
「今日はちょっと多いかな。どこから来たんだろう」
 たっくんは、スズメを眺めながら思います。窓辺には、ミニシクラメンの鉢植えが飾ってあります。
「あんまり咲かなくなったな」
 小さなつぼみが毎日少しずつふくらみ、やがて咲いていくのを眺めるのが、たっくんは好きでした。日差しが昨日よりほんの少し明るくなっているように感じました。どこからともなく声が聞こえました。
「たっくん、おはよ」
 お父さんでもお母さんでもありません。スズメかもしれないし、さっき通り過ぎた猫かもしれないし、花かもしれないし、太陽かもしれないし、風かもしれません。自然のもの、命あるものは、みんなたっくんの仲間なのです。
「おはよう」
 心の中で、たっくんは返事をします。じつは、たっくんは人気者なのです。お母さんが思っているよりも、朝は忙しいのです。

 お昼ごろのことです。少しうとうとしていたたっくんは、玄関のチャイムの音で目が覚めました。
「こんにちは」
 玄関から声がしました。たっくんはすぐにわかりました。ヒロコさんです。お母さんのお友達です。たっくんは心が弾みました。なぜなら、ヒロコさんが来たときは、お母さんの声が嬉しそうに響くからです。
「たっくーん、元気かな」
 ヒロコさんは、真っ先にたっくんの部屋に来ます。病棟保育士のヒロコさんは、たっくんのことをずいぶん前から知っているのです。ちょっと顔をゆがめたたっくんの表情を、ヒロコさんはすばやくわかってくれ、手をとって握手しました。
 開け放たれたドアからキッチンが見えます。
「ああ、外は寒かったわ」
 コートを脱いでテーブルにつくと、ヒロコさんは紙袋から何やら取り出しました。お母さんのはしゃぐ声がします。ヒロコさんがおみやげで持ってきたのは肉まんでした。二人でさっそくほおばっています。
「なんだろう、なんだっけ、あれ」
 たっくんは、考えました。知っているような気もするし、でもよく思い出せません。ぼんやり空を見て、ふと浮かびました。
「ああ、わかった。あれだ」
 雲です。たっくんが思い出したのは、夏ごろによく見かける入道雲でした。
「へーんなの」
 たっくんは、自分でも考えていることが可笑しくて、少し声が出ました。「あれー、たっくん、どうしたかな?」
 ヒロコさんが言いました。
「どれどれ」
 二人でたっくんの様子を見にきました。
「仲間に入りたいんだよね、ごめんごめん」
「これね、肉まん。お母さんたち、肉まん食べてたの」
「あら、たっくんのほっぺたみたい」
 ヒロコさんは、おどけて言うと、たっくんのほっぺたをそっと撫でました。
「ほんとだ! ふわふわでいい感じ」
 ヒロコさんとお母さんは、元気よく笑いました。
「あーあ、よくわかんないや」
 二人のおばさんに囲まれて、たっくんは、困ったやら、可笑しいやら、変な感じがしました。

 明るい声に誘われて、窓の外では、スズメたちが集まってきました。みんな並んで、面白そうにたっくんたちを眺めていました。

==END==

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