私が選んだ、時実新子の一句(1)
今回、オンライン現代川柳鑑賞会を始めるにあたり、かつて私が、故・時実新子が創刊した川柳雑誌「川柳展望」に寄稿した鑑賞文の一編を再録します。川柳に馴染みがないひとに、現代川柳の魅力の一端を伝える一助となれば幸いです。
いちめんの椿の中に椿落つ 時実新子
庭の片隅にまだ雪が残る二月の閑谷学校(特別史跡・岡山)を訪れた時、椿山の椿は一つ二つと花をつけ始めたばかりだった。その後ひと月ばかりして姫路出向の任期を終えたわたしはあわただしく桐生に戻ってしまったので、今年は閑谷学校はもちろん何処ででもいちめんの椿を見る機会がなかった。
この句を最初に読んだ時の印象は「誰にでも出来そうな情景描写の句」だった。しかしそれでいて、アアソウデスカと言って無事通過できず心に残ったのは、見ずじまいだった椿への憧憬とこの句が持つ素直さのためだろうと思う。
川柳作家が、素直な句、分りすぎる句を作る時、鑑賞する者は注意しなくてはならない。それは、一見易しい句を発表する作者の胸の内にはむずかしい言葉や技巧など不必要なほど素朴な情熱が溢れているに違いないからである。
それでは新子が訴求するものとは一体、何なのだろう。
ところで、次郎物語で有名な下村湖人は「白鳥芦花に入る」という言葉を愛用した。白い芦の花の中にまっ白な白鳥が飛び込むとはっきりしないままに烏の姿は見えなくなるが羽ばたきで起った花の波は無限にひろがっていく。これは教育者でもあった湖人が理想とした生き方である。つまり目立たない行ないをしながらもまわりを動かそうとする心意気がそこにある。
一方新子の句はそれと似ているようでいて最後のところで異なっている。いちめんの椿の中に一輪の椿が落ちても傍から見たら全く目立たない。そこまでは同じだが、この椿は波紋をひろげようなどという御節介なことはしない。
いちめんの椿はそれぞれに個性を持っていることを知っているから、その中に無心に混って自己を主張することに命をかけている椿なのである。たくさんの個性の中にいま一輪落ちた真紅の椿、それは謙虚さの内に情熱を秘めた新子の個性、新子の椿なのだ。(浅野良雄)
(川柳展望・第15号・1978年11月1日発行)