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カウンセラーとして考えること
2008年6月5日に、わたらせ教育フォーラムの機関紙「共育つうしん」に掲載された文章です。今から17年前に書いたものなので、私自身の立場や考え方、さらに心理職の資格制度は現在と異なる部分があります。しかし、根本的なところに大きな違いはないので、あえて当時の文章のまま転載いたします。
こころの専門家
私は、「心理」とか「こころの専門家」という言葉が、あまり好きではありません。仕事ではそういうことに関っているのですが……。そもそも、人間の「こころ」というものは、他の学問分野ほど簡単かつ正確に分かるものではないと「信じて」います(もちろん、他の学問は簡単だということを言いたいのではありません)。人間というのは、自分のことでさえよく分からないことがあるくらいですから、まして他人のことは容易には分かりません。したがって、「人(他人)のこころが良く分かる人」という意味で専門家と呼ぶのでしたら、これは見当違いだと思います。
確かに、人間の「こころ」という不可思議なものは、研究対象としては限りなく面白いかもしれません。しかし、その研究結果を一般化して生身の個々人に当てはめることは、かなりの無理があるでしょうし、危険でさえあります。ですから、「こころの専門家」というものはないと私は思っています。言い換えれば、人間一人ひとりが、「自分のこころの専門家」なのではないでしょうか。
ただし、もし、いま私が言ったようなこと(「こころ」の難しさとユニークさをわきまえているということ)をわきまえているという意味で「こころの専門家」と呼ぶのでしたら、いくらか当たっているかなとは思っています。
受容ということ
「受容」とか「受け入れる」という言葉を聞くと、「相手の要求を聞き入れてかなえてあげる」や「自分も同じ意見である。賛成である」という意味として受け取るひとが多いのではないでしょうか。もちろん、そういう意味もあります。しかし、「心理的」にむしろ重要なのは、「かなえてあげる」ことよりも、相手の「気持ち」や「言いたいこと」を、そのまま「受けとめる」ことなのです。言い換えれば、「相手はそう思っているんだなー」と理解してあげることです。まずはこれで十分なのです。それを聞いた自分がどう思うのか、相手の考えに賛成なのか反対なのかは、その次の問題です。
しかし、この「心理的な受容」という感覚は、なかなか理解しにくいようです。ですから、「受容」を、「相手の要求を聞き入れてかなえてあげる」「自分も同じ意見である。賛成である」という意味に受け取っていると、それができないときは、始めから拒否するような言葉を相手に対して発してしまいます。たとえば、「おもちゃを買って欲しい」と言う子どもに対して、買ってあげられないなんらかの事情がある場合、間髪を入れず、「そんなこと言うんじゃない」とか「このあいだ買ってあげたばかりじゃないか」などと言ってしまいがちです。子どもにすれば、「買って欲しい」という気持ちと、実際に「買ってもらう」ことは、実は全く別のことなのです。ですから、たとえ買ってあげられない事情があるにしても、買って欲しい気持ちまで頭から否定しては可哀想だと思います。
ここでは、子どもとおもちゃを譬えに出しましたが、これは、大人の場合も同じでしょう。たとえ実現しなくてもいいから、「せめて気持ちだけでも分かって欲しい」という場合が、意外とたくさんあるのではないでしょうか?
日本におけるカウンセリングの現状
日常、民間のカウンセラーとして、また、短大や高校のスクール・カウンセラーとして仕事をしている中で残念に思うことがあります。それは、クライエント(来談者)から、「○○でカウンセリングを受けたら、よけいに落ち込んでしまいました」という話を聞くときです。その原因の一端がカウンセラー側にあると思われる場合はなおさらです。
日本の現状では、心理的な相談における基本的な態度や技法を、必ずしもきちんと習得しないままカウンセラー(または相談員)として仕事をしている人がいます。たとえば、教育者としての経験が豊富であるという理由だけで相談員になることが少なくないからです。そういう人のカウンセリングを受けると、ときには、アドバイスと称して、自らの体験談や自説を聞かされたり、極端な場合は、悩んでいること自体を非難されたりします。スッキリするのはカウンセラー本人ということさえあるようです。もちろん、「自らの体験談や自説」自体が問題なのではありません。悩んでいる人に対する基本的なカウンセリングの方法としてふさわしくないということです。
わたし自身がそうでないことを願っているのですが、これだけはカウンセラー本人には分からないのです。ただ、ありがたいことに、時々、正直かつ率直なクライエントさんがいて、カウンセラー(わたし)の至らぬところを的確に指摘してくれます。そんなときは、少なからずショックを受けますが、同時に感謝の気持ちもわきます。カウンセラーを育ててくれるのは、そんな純粋なクライエントさんなのです。
対話のできるカウンセラー
カウンセリングの基本は、一にも二にも、相手の話をきちんと聞くことです。それなくして、いくらアドバイスだけをしても、実際の役には立ちません。まして、悩みが深ければ深いほど、苦しみが大きければ大きいほど、この「聞く」姿勢が大切になります。もちろん、何らかの資格をもっているカウンセラーなら、研修や認定試験などの過程で「聞く」ことの大切さを教わります。しかし、研修や試験のときにはそれができても、実際のカウンセリング場面になるとできなくなってしまう人がいるようです。それくらい、聞くことは難しいのです。なぜかといえば、相手の話を聞き続けることは、大きなストレスのかかる行為だからです。個人差は大きいものの、正規の研修を受けた人、資格をもっている人でさえその程度ですから、いかにカウンセリングという行為が難しいことかがわかります。
一方、カウンセラーを養成する各種の研修において、「聞く」ことの重要性が強調されるあまり、カウンセリングとは「ひたすら聞くことだ」と、極端に狭めて解釈しているカウンセラーもいるようです。しかし、ケースによっては、「ただ聞いているだけ」のカウンセリングではなかなか進展しない場合があります。そこで、カウンセラー自身も自分の意見や気持ちを話すことができる、つまり、適切な「対話」ができるカウンセラーの存在も不可欠です。カウンセリングを進めていくうえで、臨床心理学や精神医学の知識は欠かせませんが、実は、カウンセラーには、それらの知識を十分に機能させることができる「対話の質の高さ」が求められているのです。