四十路の手習
年の瀬にSNSを賑わせる「今年買って良かったもの」ネタが好きだ。
思いがけない人の思いがけない買い物、思いがけない好み。
添えられたコメントに滲む感性や生活が微笑ましい。
例に漏れず自分も投稿してみたが、そういえば書きそびれたものがあった。
それが、これ。
昨年の11月から、書道教室に通い始めたのだ。
娘たちが。
そして私も。
実は人生初
四十路にして初めての書道教室である。
兄姉は子どもの頃習っていたが、それぞれがそれぞれの友達と別の教室に通っていたらしく、私は習いそびれたまま大人になった。
だからといって、別に悪筆というわけではない。
子どもの頃の文集に残るのは、縦に細長く右上がりな字。
「クセはあるけど下手とまではいかない、読むのに不都合がない程度の字」だったと思う。
小学校の上級生にとんでもなく筆文字の上手な方がいて、正面玄関に飾られた美文字に憧れていた。
同級生にもさりげなく字が上手な子が何人もいて、いいなぁ素敵だなぁと思ってはいた。
けれど、漢字は得意だったし、字について言及されること自体なかったので、そのまま過ごしていた。
それが「見ようによっては上手く見えないこともない字」くらいになったのは、DSと結婚がきっかけだ。
なつかしの美文字トレーニング
ニンテンドーDSは、いわゆる娯楽ゲームだけでなく、脳トレのような知的・学習要素のあるソフトが多く発売されていた。
そのうちのひとつが美文字トレーニング。
2006年頃、どうぶつの森のためだけ購入したDS Liteだけど、これは!と思って購入。筆風デザインのタッチペンも気に入っていた。
それまでの私は、字はパーツや読み方や意味こそ大切で、パーツの配置やバランスにはさほど興味がなかったらしい。
それがわかったのが一番の収穫だったかも。
意識してみれば結構変わるもので、自分でもわかるくらい字に変化があった。仕事を始めて、電話メモやご祝儀など「人目に触れるとき」くらいしかまともな手書きをする機会がなくなったことも、丁寧に書くようになったきっかけの1つかもしれない。
こうなると、元来の見栄っ張りが顔を出し、「綺麗な字を書く人になりたい」という欲が出始める。
義実家の影響
そんな折、結婚を決めた。
義実家がお寺であることが、いろんな意味で大きな影響を持つことになる。
義母との文通
結婚の挨拶をした頃からか、義母と文を交わすようになった。
この義母が、字が上手なのだ。そして文章も。
折に触れて手紙のやりとりをしていると言うと「すごいね…」と退き気味な反応をいただくことが多かったが、手紙を書くのは嫌いではないので、特に嫌ではなかった。
もちろん緊張はしたし、あの残業続きの日々の中でよく書いてたなーと自分でも思うけど。必ずPCで下書きを書いてから清書してたしw
けど、レターセットやペンを選んで、時候の挨拶をググって義実家に合うものを選んでアレンジを加えたりして、そんな風に書いていくのは楽しい作業だった。
おかげで、春夏秋冬いつでも季節に合ったレターセットを選べる状態だ。
結婚して15年の今は、子どもたちの写真を手軽に送りつつメールで済ませることが増えたけれど、実母や実姉から「字、上手くなったよね~」と言われるまでになれたのは、間違いなく義母のおかげと思っている。
義父&義弟の筆文字
一方、義父と義弟はお坊さんである。
筆文字を書き慣れていることこの上ない。
帰省すれば、張り紙に卒塔婆に、家中(寺中)で力強い美文字を目にする。
こんな方々に己の拙筆を見せられるか?否!…となってしまうのだ。
もちろん、そんなことを言ってくる方々ではないので、あくまで自分の気持ちの問題。
書き慣れている方には及びもしないけど、悪くはないよね、なところまでは持っていきたくなる。
書道教室を探して
東京にいた時にも、何度も習うことを考えた。
通信のペン字講座もいいな、と思っていたし、近所の書道教室を検索していた。
でも、気持ちが盛り上がってるときに限って仕事や子ども周りがバタついたり、みつけた教室の曜日や時間が合わなかったりで叶わなかった。
こちらの教室も、夏ごろ発見して飛びつきそうになったものの、当初は別の習い事と被ってしまっていた。
それが、長女が習いたがったことと、定期的に行っている習い事の見直し期にうまく空いたことで、ようやく入会!
いまのところ我々の時間は我々しかおらず、贅沢な指導を受けさせていただいている。
子どもは「お母さんみてみてー!」とやりたがるが、申し訳ないがかーさんも真剣なので、教室内では目礼で終わらせてしまうこともままある。
家では母子だけど、ここでは同じ生徒。
めきめきと上手になる子どもたちに、大人げなく対抗心も燃やしている。
上手な字ってなんだろう…?とお手本を見つめすぎてゲシュタルト崩壊を起こしたり、パーツに気を取られ過ぎて字としてのバランスがめちゃくちゃになるなど木を見て森を見ず的な迷走をしたりと前途多難ではあるが、わずかながらも感じる手ごたえを喜びに、しばらく続けていく所存である。
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