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喪うこと、悼むこと
私には、日常的に「最悪」を想定するクセがある。
だからこそ運転が嫌いなのだけど。
これは娘たちにも引き継がれているらしいけれど。
SEとしては、まぁ良かったかもしれない。
より使いやすい設計、より効率の良い処理、もちろんそれも大切だが、商業システムで最も大切なのは「落ちないこと」。
エラーをどう拾うかが肝だからだ。
If、when、while。
プログラム言語は「もしも」に満ちている。
・
大切な人が増えると「最悪」も増える。
夫を喪ったら。
子どもを喪ったら。
そんなことはしょっちゅう頭をよぎる。
やっぱり、
それでも、
生きていかなきゃいけないかな。
しんどいなぁ。
2人目の子が欲しい、だって1人居なくなったらと思うと、と言った知人が居た。
正直引いた。
言葉がなかった。
そんな、スペアみたいな言い方、と憤りもした。
けれど、その言葉はぐっさりと刺さったまま今も胸にある。
もし子どもを片方だけ喪ったとしたら、残された方に執着しないと言えるのか。両方喪ったとして、もう一度子がほしいと思わないだろうか。
・
子どもは2人、と決めていた。
夫は、経済的な事情が許されればもっと居てもいいと思っていたようだけど。
最初の妊娠は初期に悲しい結末を迎えたが、結果的に可愛い可愛い娘2人に恵まれた。
ずっと待っていた、夫にそっくりな巻髪の子どもたち。
年齢的にも、自分の器的にも、2人がギリギリだと思う。
何年か前にミレーナを入れたことで、妊娠の確率は限りなく低くなった。でも、ミレーナは摘出すればまた妊娠可能です、と言われた時、ホッとした自分がいたことは、認めざるを得ない。
・
逆のパターンももちろんある。
妻を喪ったら、夫は。
母を喪ったら、娘たちは。
…まじで死ねない、と思う。
・
同級生の死があって書き始めて放ってあったこのnote。
そこに友人の子が加わってしまった。
赤子の頃から折に触れて会い、愛でてきた子だ。
もう小さな子どもではなくなり、会う機会も減っていたけど、
年に一度は必ず写真を送ってもらって成長の喜びを分かち合ってきた。
晴れやかな制服姿も
休校中に兄弟ではしゃぐ姿も
部活に勤しむ眼差しも
妙に老成した話し方も
無邪気な弟に困って下がった眉も
うさぎカチューシャをつけたドヤ顔も
ファミレスの植栽を夢中でいじるお尻も
今でも覚えているし、忘れたくもない。
大事な、可愛い子だ。
なんで、どうして、と
誰ともなく幾度となく問うてしまう。
けれど、理由がなんであれ、あの子はもう居ないのだな。
それが事実で、なんと悲しいことか。
大事な子が居なくなってしまったこと、
そして、
友人が最愛の宝物を喪ったことが悲しくて苦しい。
宝物を喪ってもなお
生きていかなければならない理由があること
それが、救いであり、枷であるようにも感じる。
いまの私にできることはなんだろうと、
あの子を思い出すたびに考えている。
友人を傷つけたくない。
腫れ物扱いもしたくない。
相手の気持ちあってのことだから、都度正解も変わるだろう。
それで、勝手ながら、
あの子を喪った悲しみや想う気持ちをこうやって全部書いてしまうことにした。
こんなんでも、
他所のおばちゃんをめろめろにさせていた素敵な子が生きた証のひとつになるかな。
そうだといいな、と思っている。