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小説 『あなたとわたしとあなたと』
Xにて「障がい者の性欲をどうするか問題」が投稿されて、炎上していた。YouTubeでは半身不随の方の性に関する動画に非難の声があふれていた。
さまざまな意見が飛び交う中、書かれていることのほとんどは短絡的で、想像力が欠如していることに悲しくなってしまう(いつものことだけど)。
筆者は3年前(2022年)身体障がい者の性を短編小説にしたことがある。いま、このような風潮なので、無料でこの小説を公開することにした。
あなたはあなたの身体に傷がつくことを極端に恐れ、それを信条としました。あの人から愛されなくなるとおもったからですよね。
あなたの身体の中に違う生き物が芽生えた途端、周囲はあなたの身体の中の生き物を取り除けとさんざんいってきました。けれども、あなたはその声を拒んだ。あなたの身体に傷がつくのを恐れて拒んだ。しばらくして、周囲はあなたの身体に器具を入れて、取り出すことをあなたに勧めました。しかしあなたはそれも拒んだ。身体に傷ができることを恐れ、あの人から愛されなくなるのでは……と拒んだ。
あなたの子宮から産道を長い時間をかけて出てきたのがわたし。光が見えるころには、わたしの意識はすでになかったのだと思う……
あなたがわたしの産道から出てくるとき、わたしは死んでしまうかもしれないと感じるほどの長い苦しみの中にいました。急に身体が楽になり、あなたとあえることを期待しましたが、看護婦さん……いえ、そのころからは看護師といわなければならなかったのかしら、その看護師さんがそそくさとあなたをわたしから遠ざけました。
あなたとはじめてあったのは翌日。あなたは透明なガラスの壁のさらに向こう側の透明な箱の中にいました。あったとはいえないですね。あなたをはじめてみたと訂正します。
そのときのあなたは泣いてはおらず、ただ、しずかに、ねむっているだけでした。ねむっているあなたをみて、わたしは小さなときにサンタさまからいただいた赤ちゃんの人形をおもいだしました。あの人形も泣きませんでした。
年下のいとこが赤ちゃんのときはよく泣いていました。おばさんがいとこにおっぱいを飲ませると泣きやみます。甘いにおいがただよう中、おっぱいを飲ませてしばらくすると、おばさんがいとこの背中をトントンとたたきました。
「なんで赤ちゃんをたたくの?」
わたしはおばさんに聞きました。
「げっぷを出すためよ。そうしないと戻しちゃうから」
おばさんがそういいながらトントンしていたら、ほんとうにいとこのちいさな口からちいさながげっぷ出たので、わたしは笑いました。
人形は泣いていなくても哺乳瓶のミルクを飲みます。ぜんぶ飲みおえたあとにわたしは背中をトントンとたたきました。なかなかゲップがでなくてわたしは焦りました。戻してしまうかもしれない……と恐れながら力強くたたきました。右手をにぎって、トントンではなくドンドンとたたきました。しかし、げっぷは出ません。人形はあいかわらず泣きもしません。
ふと、床においた哺乳瓶をみると、中身がへっていないことに気がつきました。ああ、だからおっぱいの甘いにおいもしないのだなと――
透明のなかにいるあなたをみながら、泣かないからおっぱいはいらないのだろうとおもい、おっぱいをあげなくても、いつかわたしのふくらんだおっぱいはもとの大きさにもどるとおもい、病室にもどってからロッカーからクリームを取り出してお腹とおっぱいにぬりました。
あなたを宿す前、いとこと温泉にいったときに、いとこのしぼんだおっぱいとひび割れたお腹をみて、わたしはそんな身体ではあの人から愛されないとおもったのです。愛される身体を維持しなければいけないと、わたしはわたしのお腹とおっぱいがふくらみはじめたときからクリームをなんどもなんどもぬっていました。
あなたはわたしの手となってくれましたが、わたしにはなにもできないのが苦しく、わたしを哀しみました。わたしはあなたに手伝わせることが苦しく、わたしを哀しみました。あなたがわたしを恐る恐るさわるのが苦しく、あなたを憐れみました。そして、あなたがわたしを慈しむようにさわるのが苦しく、あなたを憐れみました。
最近、あなたはあの人からやさしくされていないのですか?
あなたの世話をわたしがするたびに、あなたはその虚ろな目でわたしに訴えかけてきます。はじめは痛いのかしら、とおもいました。しかし、だんだんとあなたに自我がうまれてきたこと。そして、大人になったことを知りました。あなたは苦しく、哀しんでいたのですね。あなたの虚ろな目がわたしには恐ろしく、そして苦痛になっていきました。
あの人は最近帰ってくるのが遅くなりました。
* *
「ピンポン」
インターホンのチャイム音が聞こえ、あの人が家に帰ってきました。リビングに入って早々、ジャケットをダイニングセットの椅子に放り投げ、地味な紺と灰色からなるネクタイをゆるめながら、「夕めしは食べてきたからいらない」とひとこと。
「ええ、遅いから食べてくるのだとおもいました」、わたしがそういうとあの人は奥の襖がしまっているのをみて、すぐに視線を戻していいました。ドアの向こうではあの子が寝ています。
「風呂に入ったら寝る。明日から金曜まで出張になったからスーツケースに用意をしといてくれないか」
わたしはあの人にいいました。
「少し聞いて欲しいことがあるの?」
「いまじゃなきゃダメなのか?」
「ええ……」
「あいつのことか?」
「そう。あの子のこと」
あの人はここ最近、残業だけではなく、出張も多くなっています。でもあの子のことなら話を聞いてくれます。わたしのことや世間話でしたら、はぐらかして先延ばしにするのですが……
「あのね、いつまでも子どもだとおもっていたのだけど、成長してきたというか……あの子も男性になったというか」
「なにが言いたいんだ。簡潔に言ってくれよ」
「その、女性なら思春期に生理がくるでしょ。あの子にも……」
「そういうことか。そりゃそうじゃないのか。男だからあたりまえだろう」「ええ、そうなの。でもあの子、苦しそうなの」
「寝ているうちに出るだろ」
「もう何年もそうよ」
「じゃあいいじゃないか」
「……苦しそうなのよ。だから最近はわたしがしてあげているのだけど」
この言葉をいうのに、どんなにわたしも苦しかったか。
「おまえ正気か? なにをしてるんだ!」
「手でしてあげいているの。いけないことかしら……」
あの人は、一呼吸おいていいました。
「母親なら仕方ない……」
「えっ、母親なら仕方ないの? ねえ、こういうのって母親がすることなの?」
「じゃあ、誰がするんだ。俺がするのか? そんなの普通じゃないだろ」
「だったらあなたはどうしていたのよ?」
「それは……自分でしていたさ」
「あの子にそれができないのはわかっているでしょ」
「じゃあ、どうすればいいんだ! 施設の人にたのむのか? ああ、そうだ。ケアマネージャーに聞いてみろよ」
「聞きました。たいていのおうちでは自然任せだそうです」
「ほら、言ったとおりじゃないか。自然でいいんだよ」
「でもね、聞いて。家族が介助することも少なくないそうよ。そしてね、できれば同性、父親が介助した方がいいらしいの……」
「はぁ? やっぱり俺にしろというのか。どう考えても父親がすることじゃないだろ」
「じゃあ、母親がすることなの? わたしだってつらいのよ……きっとあの子だってつらいにきまっている」
あの人はあの子のことは全部わたしに押し付けてきました。いくら説明しても仕方ないのはわかっていましたが――
「それでね、調べたの。そうしたら障がい者専門のそういうサービスがあってね……」
「はぁ? それってなんだよ……風俗か。おまえバカになったのか? そういう思考を持つこと自体がやっぱり普通じゃないんだよ」
「あなただってそういうところに行ったとむかしに話してくれたでしょ!」
「行ったさ。男だからあたりまえだろ」
「あの子だって男よ!」
「普通の身体じゃないんだよ、あいつは」
「普通って何よ!?」
普通ってなんなのでしょう。たしかにあの子の身体はほとんど動きません。言葉は話せません。母音しか発しません。しかし普通とか普通じゃないという括りがわたしにはわからないし、わかりたくもないのです。
「おまえ憶えているか? 付き合うときに小汚い喫茶店で、俺に風俗に行ったことがあるかどうか聞いてきたことを」
もちろん憶えています。ですからさっき聞いたのです。行ったことがあるというあの人に、わたしは性病の検査を受けて欲しいとはっきりといいました。
「俺はな、病院に行って高い金を払って、恥をかきながら検査を受けたんだぞ。そんなお前があいつに風俗だって? おかしいじゃないか。だいたいああいう職業自体が悪なんだよ。反社とかと繋がってるかもしれないだろ? 働いている女性の人権だって疑わしいし、だいいち、ああいうところで働いている自体が普通じゃないんだよ!」
あの人は誰でも口にしそうなことをいいました。もちろんわたしだってそうおもっていました。しかし、わたしにとってこれは大きすぎて乗り越えるのがとてもむずかしい問題なのです。
「でも、あなただって行っていたのでしょ。悪というけれど必要悪だってあるでしょ」
「何も知らない若いころだけだ。やっぱりお前は普通じゃないし、いや、狂っている!」
「ええ、なんといわれてもかまいません。でもね、このままだとわたし、ほんとう狂って壊れてしまいそう……」
「じゃあ、好き勝手にしろ! いいか、責任はぜんぶお前がとれよ! 風呂はいい。もう寝る」
あの人はそういってジャケットとネクタイをそのまま置いて、二階の自分の部屋に消えていきました。
あの人が放り投げて勝手にしろというのは承知していました。ですから、もうお店に電話をして、あの子のケアをしてくれる予定の女性とあうことになっています。お店からは事前にあうことはしていないといったんは断られましたが、ケアと同額の料金を払うということで話がつきました。
あの人は最近出張が多いのです……
* *
あなたとはじめてあったのは駅前の古ぼけた喫茶店でした。はじめての人とあうときにはいつも喫茶店であいます。あの人と……いつかしら、忘れてしまったけれど、はじめてあったときも喫茶店でした。あなたもはじめての人とあうときは喫茶店が多いのでしょうか?
あなたがくすんだドアから入って来たとき、わたしはあなたがあなたとは気がつきませんでした。だって、いたって普通の若くて健康的な女性でしたから。
あなたはテーブルに座っている女性ひとりひとりになにかをみせていましたね。変わった人がいるなとおもいました。そしてわたしにその順番が回ってきました。黒い端末に黒い画面。手書きでわたしの苗字が緑色で書かれているのをみて、わたしはあなたに席をうながしました。それがあなたとわたしのはじめての出あい。
わたしは緘黙症です 筆談をお許しください 耳は聞こえます
あなたは短いペンのようなもので、淡く光る白い画面にスラスラっと文字を書いてわたしにみせました。わたしは「緘黙」という字が読めなくてあなたに聞きましたね。
かんもくと読みます 訳あってしゃべることができません
そうですか、とわたしはあなたにうなずき、なにを飲まれますかと聞いたはずです。
おなじものを お願いします
メールをひとつ送ってもよろしいでしょうか
しばらくしてあなたの前にカップに注がれたブレンドコーヒーが置かれると、あなたもわたしも黙ってそれを飲みました。二、三分だったかしら、それとも二、三十分だったかしら。
ミルクも砂糖も入れないあなたでしたね。
息子さんとお呼びしてよろしいでしょうか?
「ええ、どうぞ」
息子さんのお年と どのような障がいかを教えていただけますか
二十一歳で重度の脳性麻痺。身体はほとんど動かせず、車いすかベッドでの生活で、排泄はほぼ紙おむつに頼っていること。言葉は聞いて理解をするけれど、口にはできない……
わたしで大丈夫でしょうか
あなたはわたしにそう聞いてきました。根拠がないながらも大丈夫ですよといいましたが、あなたはとても不安そうな面持ちでわたしの顔をのぞいていましたね。
デリケートなことをお聞きします
いままでにこのようなサービスを受けたことはありますか
はじめてですと答えたとおもいますが、違っていましたかね? ないですといったかもしれません。
性のケアは施設の方 もしくは性処理介助サービスですか
この辺りにはそのような介助サービスがないとケアマネージャから教えていただいたことを説明し、デイサービスにはたまに預けますが、そこでしていただいているかは聞いていないのでわかりません。精通をむかえてからは自然にまかせていましたが、ここ最近はわたしが月に一、二度手伝っています……ということをあなたに話しました。
わかりました ありがとうございます
障がい者専門ですが 性風俗に変わりないです
不安なことはありませんか
わたしでよいのでしょうか
書いてみせては字を消す。それを繰り返してわたしに聞いてきたあなたには正直にいいました。性風俗に関してはあまり良くないイメージを持っていたのは事実だということを。しかし、それによってわたしのやるせない気持ちをおさえられるのであれば、それは悪ではなく、必要悪でもなく、善であることも。
――わたしは考えが変わったようです。いまさっきあなたとあって、喋る言葉と書く言葉で会話をしながら変わったようです。それと、あなたのこと。あなたで不可な理由は一つもありませんでした。あなたは若くてとても美しいし……
ほんとうに わたしでよいのでしょうか?
「とてもきれいな字をお書きしますね。特に『し』と『い』の字がお美しい。きっと外見だけではなくて心もきれいな方なのでしょう。あなたにお願いをしたいとおもいます。六十分たっていないですが、ここらへんでよろしいですか?」
あなたは顔を少し赤らめながらわたしが渡した封筒を受け取り、封筒と黒い端末を、控えめなデザインでしたが、品のよいバッグにしまい、きちんと頭を下げて喫茶店を出ていきました。
お店の方にわがままをいい、あなたと事前にあってよかったとおもっています。
わたしはもう一杯ブレンドコーヒーを頼み、鞄のなかから文庫本をとり出しました。母の本棚から昔に拝借した、黒い背表紙がひび割れている大人の恋愛小説を……
* *
「ピィーンポン」
二つの音がレガートでつながるインターホンのチャイム音。
わたしが受話器を取ると小さな液晶画面にはあなたが映し出されていました。
あなたはボタンを押す前から用意していたのですね。開いたドアの向こう側には、ついこのまえあったときと同様、若くてきれいなあなたが黒い端末を持って立っていました。
先日はコーヒーごちそうさまでした
「どうぞおあがりください」、あなたをリビングに案内をして、封筒を渡して、中身を確認してほしいとあなたにいいました。
ありがとうございます
メールを送ってもよろしいでしょうか
はじめてあったときにもあなたはメールを、といいましたね。きっとお店に連絡をしているのでしょう。つまりいまから一二〇分がはじまるのですね。
わたしは冷たい緑茶を硝子茶碗にいれて、あなたが腰を掛けた前に差し出しました。あなたはゆっくりと黙礼をして口をつけました。とても上品なしぐさでしたよ。
「あそこの襖の部屋にあの子がいます。ベッドの上に寝かせています。紙おむつは新しいのに取り換え、洗浄綿できれいにしたはずですが、気になったらベッドの脇にあるのでいくらでも使ってください」
ありがとうございます
とても端的で、それ以上は必要がない言葉で返すあなた。句読点をつかわないあなた。筆談だからそうなのかしら? それとももとからそうなのかしら?
「ところで、こういうときってわたしはどこにいたらよいのでしょう? 外に出た方がよいのなら……」
なにかあったときのために家の中にいてください
その時には手をたたいて音をだします
でも あのふすまは閉めます
ここで本を読んでいてもよいかしら? と聞くと、あなたは黙って深くうなずきました。
「では、お願いします……」
あなたは冷たいお茶を飲み干し……ごめんなさいね。生成り色の大きなトートバッグからお茶のペットボトルがみえたのはあなたが座ったあとだったのよ。無理して飲まなくてもよかったのに。律儀なのですね。
あなたはその大きなトートバッグを抱えてあの子が横たわる部屋へ行き、左右の襖をしめて、あちらの世界へ消えてゆきました――
* *
こんにちは あなたと会うのははじめてですね お母さまからわたしのことは聞いていますか
こんにちは。はじめまして。母からヘルパーさんがくると聞いていました。それとお話ができなくて字でお話すると聞きましたが、お話しができるのですね。なにかあれば、字はひらがなが読めるので目の前で見せてくれたらわかります。
はじめての人とあうと緊張してしまうことが多いのだけれど あなたとは大丈夫そう 字はね もしダメになったらそうするね
ドキドキするのは普通ですか?
さあ わたしにはわからない 女の人を見るとドキドキするのかな
わたしには女と男のちがいがよくわからない……テレビは観ているけれど、いろいろな男の人やいろいろな女の人がいてむずかしい。
わたしは男みたいです。でも、自分の姿がみえないからよくわからない。
あなたはとてもハンサムな男の人よ 首が動かないから見えないかもしれないけれども わたしが保障してあげます ところでテレビやデイサービスで女の人を見てドキドキすることはない
たまにある……テレビである人を見ると胸が苦しくなってドキドキして、身体も苦しくなる。デイサービスの桃色の服を着て、目がきれいな人を見ると同じようになる。いまもドキドキして、すこし苦しい。
ねえ 寒くはないよね 服を脱がせてもいいかしら
身体を拭くの?
違うけれども そんな感じ
寒くないよ。大丈夫だよ。
もし 痛かったら痛いといってね
うん 大丈夫だったね ほら ぜんぶ脱げたよ ちょっと苦しそうになっているね わたしは女だから男の人をみるとドキドキするの だからいまもドキドキしている わたしも服を脱ぐね
なんで服を脱ぐの? ドキドキしたら服を脱ぐの?
ああ…………とてもきれい。ああ、どうしよう。苦しい、とても苦しいよ!
大丈夫 いまからあなたの苦しみをゆっくりと取りのぞいてあげるから だから なにも怖がらないで 安心して ただ わたしに身と心をゆだねてーー
* *
あなたが来るたびにあの子の表情が生き生きとするのがわかり、あの子は健全で普通の男の子なのだと再認識しました。
あの人はあなたのことを聞いてきません。気にしている素振りすらみせてきません。どうおもっているのかはわたしには判断しかねますが、あの人の反対を振りきってあなたに頼んだのは正解だったとわたしはおもっています。
しかし、あなたが最後に来てくれたすぐあと、世の中はコロナ禍となりました。しばらくしてあなたのお店に電話をしたら、基礎疾患をもっている利用者に万が一のことがあったら責任が取れないので、しばらくサービスを中止するといわれました。でも、あなたにもう一度あいたくて、連絡先を教えて欲しいとお願いしましたが、個人情報は教えられないといわれてしまい……わたしもあの子も大変残念におもっています。
わたしはあの子には普通の男の子として普通に恋をしてほしいと願っています。そして、あの子はあなたに恋をしているとおもいます。あなたのことを「きれい」といっていました。わたしのこともあの人のことも「ママ」、「パパ」といわないあの子が、あなたのことは「きれい」というのです。はじめて発した言葉が「きれい」です。このようなかたちの恋は恋とはいえないのでしょうかね? でも、あなたにはあなたのよい人がいるかもしれない。だってあんなに若くて外見も心も美しい人だから……
あなたが奥の部屋に入り、襖をしめてしばらくすると、あなたの声が微かに聞こえます。聞こえるといっても話すことのできないあなたですから、言葉ではなくあの子と同じように母音です。その母音を聞きながら、わたしはあの人からとっくに愛されていないことに気が付きました。あなたの艶めかしい母音を聞いていたらわたしはわたしが不幸におもえてしかたありませんでした。読んでいた小説のストーリーと重なっていたのかもしれませんが、わたしはあなたとあの子にやきもちを焼きました。
でも、わたしの不幸はわたしが選択したことによる不幸であったのかもしれません。あの子はなにも選択せずにわたしの子宮から、長い時間をかけて出てきました。あの子には普通の男の子として恋を経験してほしい。恋することほど素晴らしいことってないとおもいませんか? あなたは恋をしていますか? わたしは恋がしたい……
それと、あの人もまわりの人も無理だといいますが、あの子には幸せな結婚をしてほしい。そしてわたしにはできなかった幸せな結婚生活をしてほしい。これは親のエゴでしょうか?
あなたのような……いえ、あなたがお嫁さんであったらどんなにあの子も、そしてわたしも幸せになれるのだろうとここ二年半ずっと考えています。
この間もお店に電話をしました。そしたらね、「お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません」とガイダンスが流れたのですよ。
二年半は長いです。あなたは違う仕事をされていて、ひょっとしたら誰かと結婚をしているかもしれません。そうおもうと、二年半はとても長いです。
あの子はわたしの手伝いを拒んでいます。苦しいだろうとおもってしてあげようとすると、動かない身体を無理に動かして怒ります。あなたがいてくれたらと何度願ったことか……
「ピィーンポン」
どなたか来たようです。
最後にチョットだけ……あの人に転勤の話がきました。単身赴任でいいそうです。あの人はわたしの身体に傷がついていなくても、わたしのそばから離れていきます――
(了)
令和4年度 岩手芸術祭小説部門 佳作
参考文献(著者五十音順)
大森みゆき著『私は障害者向けのデリヘル嬢』ブックマン社、2005年
河合香織著『セックスボランティア』新潮社、2004年
坂爪慎吾著『セックスと障害者』イースト・プレス、2016年