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ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んで
ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の文庫本を発売日に購入して、たった今、読み終えたところ。読了に半年もかけてしまった。なぜ、読むのに半年というけっこうな時間がかかったのだろう?
約600ページの文庫本だから大長編である。普段、集中して読めば一週間から二週間あれば読める分量だが、六か月もかかった。もちろんこの六か月の間には普通に仕事もあれば、短編小説を二作仕上げた。だが、そんなのが理由ではない。
要はこの小説には時間をかけなければならない大きな理由があったのだ。
それは、ストーリーがひとつの家族の百年、七世代にわたる話だからでも、アルカディオが5人、アウレリャーノのという名をもつ者が23人もでてきて、混乱したからでもない。もっと根源的な理由からであった。
一つは、黙読が必要であったこと。頭の中で音読をしていたからである。これは意識してしたわけではない。紙の上にある文字文章を目で広い、直接脳内でイメージする読み方を視読というらしい。これは多くの方が本や文章を読むときにしていると思う。私もだいたいはこの方法で読んでいる。だが、気がついてみたら『百年の孤独』は脳内で音読を要する、黙読という読み方で読んでいた。当然、視読よりは数倍時間が掛かる。おまけに自分なりの想像をした映像も脳内で再生している。
もう一つは、ストーリーの随所で心がつらくなり、一旦休止を多くはさんだことだ。長く続いた戦争の場面。多くいるブエンディア家の人々の死。特にブエンディア家ではないが、重要な立ち回りをするジプシーの長老メルキアデスの死が堪えた。ここで半月ほど止まったほどだ。
黙読に話を戻すが、なぜ黙読をしていたのであるのかを考えてみた。これは正しいのかわからないが、おそらく、この『百年の孤独』を小説ではなく、「物語」として読んだのではないかと思っている。私は神話や叙事詩。そして日本の古典……太平記や雨月物語(平家物語と源氏物語は未読)などは黙読して読むことが多い。神話や叙事詩は韻文(といっても翻訳されると散文に近くなるのだが)だから仕方ないとしても、『百年の孤独』はれっきとした散文小説であり、これは多くの方が誤解をしていると思うが、かなり読みやすい小説だ。一文ごとに、主語がきちんと置かれている。
この作品はよく、マジック・リアリズムの手法がとられていると言われている。マコンドという町に定住をした家族の百年の歴史は、リアリティを持つ歴史と(コロンビアの歴史に詳しくないのでわからないが、これ自体がフィクションかもしれない)空飛ぶじゅうたんや魔法、幽霊の登場のようなファンタジーがごちゃ混ぜになっている。筒井康隆は「・・・小説世界内での現実的事件と超現実的事件の区別がつかなくなってしまう。この目くらましこそがマジック・リアリズムなのである」と巻末の解説にしるしているが、きっとそうなのであろう。
このようなマジック・リアリズムといわれている技法を駆使した『百年の孤独』だが、私自身が小説を書くので、どうしてもガルシア=マルケスの立場になって、どう物語を紡いでいったのかを考える。おそらくだが(私はこの小説家の詳しいことは解説に書いてあることしかわからない)、最小限のプロットのみを用意して、着の身着のまま、連想ゲームのように言葉が自然と出てきた結果なのではないかと考える。実際は違うかもしれない。詳細なプロットを用意したのかもしれない。これは調べれば簡単にわかるだろうが、今は調べる気は起こらない。――なぜ、そう推理したかというと、要約が不可能だからである。「コロンビアの架空の町マコンドを舞台にブレンディア家の百年の歴史を描いた物語」としか要約できない。
そんなこんなで、私は半年をかけて『百年の孤独』を読み終えた。半年を掛けた甲斐があったかと問われれば、あったと率直に答える。その理由はそこから人間の歴史、家族、伝統といった普遍的なものは、洋の東西、極東の日本でも、地球の真裏のコロンビアでも変わらないということを知ったからである。形あるものはいつか壊れる。栄えたものはいつかは滅びる。人は必ず死ぬ。そして、そのような普遍的なものは輪廻をし、永遠に回り続ける。しいて言うならば、この「物語」の一家、ブエンディア家は輪廻から外れたのかもしれない。もう、豚のしっぽが生えた子は産まれないだろう。ブエンディアの血が途絶えたから……。