『チャンドラー短編全集3 待っている』 作者:レイモンド・チャンドラー,(翻訳)稲葉 明雄
「一、二集がまずまずの売れ行きを示しているのだろうか。再度のおすすめで、引き続きチャンドラー傑作集の三、四集を編むことになった」
と、訳者あとがきにあるが、こちらとしては実に有難いことだ。お陰で魅力的な作品を更に多く拝めることになる。
レイモンド・チャンドラーには生涯で七作品しか長編作が無い。そしてその多くが幾つかの中編作を組み合わせて書かれており、プロットが多岐に亘り、複雑で分かり難い印象を読者に与えがちである。
本書にも、長編作「湖中の女」のベースの一つとなる「ベイ・シティ・ブルース」や、同じく「さらば愛しき女よ」の一部のネタ元になっている「犬が好きだった男」が収録されているが、これらを読むと案外とシンプルなのだなと、長編作とは違った味わいを感じることになるし、また、これらが長編作にどうやって組み込まれるのかが分かって興味深いものがある。
「ベイ・シティ・ブルース」では、珍しく警官と行動を共にする羽目になった私立探偵の主人公が、受動的ともいえる態度を取っている為に、物語は何処へ向かっているのだろうという不安定さをなんとはなしに感じる筆運びであったものの、最後には探偵はチャンドラーの主人公らしくしたたかさを発揮して事件を解決に導く。
続く「真珠は困りもの」では、老婦人の盗まれた真珠の首飾りを探すことになった主人公が、事件の最中に出会った気の良い大男とやはりコンビを組む。しかし、同じコンビでも前作とこうも違うものか。こちらの二人は互いに能動的、行動的だ。幾つかのアンソロジーに組み込まれていると言う本作はなるほど出色の出来で、二人ともナイスガイ、魅力的なキャラクター造りに成功している。情のある会話も楽しい。
また、「犬が好きだった男」は一人称形式の私立探偵物で、ベーシックと言える類いの一作品であるが、初期の物である為だろうか。主人公は元気で無鉄砲、作品自体もかなり暴力性が高い。
「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」は、推理小説物ではなく、訳者をして「老残を描き、本格探偵小説を揶揄した幻想編」と表現させる、人を喰ったなかなか珍妙な作品と言える。そして、三人称形式を採っていながら、登場人物の心情にも触れるなど、非ハードボイルド的とも言える様な、他の作品との文体の変化が為されているのは、これまた妙味である。
どん尻に控えし表題作「待っている」は、ドライで淡々とした名調子、それでいて感傷的なキレのある一作だ。チャンドラー唯一の短編作だそうで、これもまた違う意味で珍しい。
レア揃いで貴重な一冊なのである。
収録作品
「ベイ・シティ・ブルース」
「真珠は困りもの」
「犬が好きだった男」
「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」
「待っている」
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