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多様性とわかりあえなさと忍耐と

最近ハマっている、ダズビーという歌い手さんがいるんですけど、その方の「アディオス」という曲の歌詞が現代の苦悩をすごく端的に描いていて素晴らしいなと思ったので、まあまずは聴いてみてくださいな。

僕ら分かり合いたいが分からない
それが当然だとわかるけど
僕は分かり合えないなら逃げたい
この胸の擦り傷が乾くまで

僕ら分かり合いたいが分からない
都合よく見えないよ大体
僕は分かり合えないなら逃げたい
傷すらも気付けない世界なんて

♪ アディオス / ダズビー

わかりあうことの難しさが歌われることは新しくないと思うんだけど、わかりあえないなら逃げたい、っていうのをストレートに歌ったものは、あくまで私だけかもしれませんがこれまで知らなくて、初めて聴いたときは感動しました。
そうよ、逃げたいのよ、ほんとは。だってわかりあうってすごくエネルギーのいることで、疲れるし面倒だもの。


良し悪しは別として昔は、なんとなくこれが「常識」「一般的に正しい」と思われていることがあって、目指すゴールがある程度共通してたというか、同じ方向を向きやすかったと思うんです。
それは、そこに同調できない人にとってはとても苦しかったと思うんですけど、ある意味シンプルでわかりやすい時代だったんだと思います。

現代は、多様性の時代といわれて久しくなりました。
ただ、この「多様性」というのが思うほど「綺麗」なもんじゃないということに、はたしてどれくらいの人が気づいているでしょうか。


先に言っておきますが、それでも私は多様性を大事にしたほうがいいと思う人間です。
でも、多様性を受け入れるとは、以下の点で痛みを伴います。

まず、拠り所を他者に求めづらくなります。絶対的な規範や正義(元来そんなもの幻想だとは思うけど)を合意形成することは難しくなります。
極論(極論ですよ)、みんないろいろなこと言うけどみんな尊重すべきなので、自分がどうしたい、どうあるべき、というのをこれまでより一層、自分で考え自分で決める必要が出てきます。
ある意味、自由ともいえますが、誰かに決めてもらったほうが楽だと思う人にとっては面倒なことでもあります。

そして、人それぞれの生き方を認めるということは、自分と異なる生き方の人と共存する必要性が出てきます。自分が受け入れられない習慣を持つ人、自分と真逆の価値観を持つ人が、身近で生活することに慣れる必要が出てくるかもしれません。
自分が自分らしく生きることを他者から認めてもらえる代わりに、他者が他者らしく生きることも認めていかなければなりません。
もちろん、生きやすさも増えるでしょうが、生きづらさの増える場面も出てくるでしょう。


では、多様性とはなんでもありなのか? というとそこにうなずく人は少ないように思います。
殺人は罪だし、横断歩道の段差を上がれず困っている車椅子の人がいたら手を差し伸べたほうがいいだろうと考える人は多いでしょう。

なので、多様性を本当に大切にしようと思ったらこれまで以上に、生活する私たちひとりひとりが、法律や倫理について学び考えなければならない、ということになります。


多様性の時代とは、わかりあえないことを前提に、それでもわかりあう努力から逃げられない時代だと、私は思います。


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