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記憶の曖昧さと語る怖さ

この前読んでいた本で、「花火大会で『今のはマグネシウムが多いな』とか言ったら化学系とばれる」みたいな話があって、それで私は高校生のとき友達と行った花火大会、ちょうど夏の定期テストの前だったから、みんな「リアカーなきK村……」って金属の炎色反応を暗記していて、男子たちが花火が上がるたび「ナトリウム!」「カリウム!」とか叫んでいたっけなぁ、というのを不意に思い出しました。

高校のときのことは、今の私を形作るのに特に大きな影響を与えていて、たとえば今就いている福祉の仕事だって、高校生のときのあの子やあの子の存在がなかったら考えもしていなかったと思う。
そのあたりのこと、いつか誰かのきっかけや支えになればいいなぁと、記事を書きたいと思ってはいるんです。

でも、実はもうすでに私の脳内で都合よく改竄されていたり、捻じ曲がったり忘れていたりする部分が多くて、書けないんですよね。


辻村深月さんの『噛みあわない会話と、ある過去について』という小説があります。私の好きな小説のひとつです。
解説を担当した臨床心理士の東畑開人さんが「これはホラーだ」と称するのに私は全面的に同意します。これは現代版ホラー。
同じ出来事を共有したはずの相手との会話が噛み合わない。自分が記憶していることを相手から堂々と否定される。この小説で出てくる噛み合わなさは、自分の記憶力のなさとか忘れっぽさを恥じるとかのレベルではなく、事実がどうだったのか本当にわからなくなるレベル、足元の地平がふっと消えてなくなってしまうような不安と恐怖を感じる、それほどのものです。


人の記憶があてにならないことの証明は枚挙にいとまがありませんが、そういうことだけではなくそもそもその当時の認識が違う、見ていた世界の捉え方が違えば、記憶の仕方も変わってきます。さらにその後どう生きてきて、過去をどのように考え位置付けているかによっても、当時の出来事の捉え方は変わります。
起こった事象は同じでも、世界は人の数だけあるとはよく言ったものです。

この主観があるからこそ他人の話は新鮮でおもしろいわけですが、私の話は私の主観抜きでは語れないことを前提に文章を書くのだから、世に発信する怖さというものはいつだって多かれ少なかれついてまわります。


だからなかなか、他人が出てくるエピソードほど書きにくい。
私はこう思う、とあくまで私で完結することならいいんですけど。
高校生のときのあの子やあの子の存在は、私の中ですごく大きい。それ以上詳しいことは、なかなかどうしても書けない。

別に書かなくたっていいって気持ちと、でもいつか書きたいなって気持ちで、まだ、揺れています。

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