愛と信頼故にモノとして見ているのだと感じた(引用あり)

この記事たちは自分の願望そのものが書かれていて、とても心にくるものがあった。

人生限界太郎さん(以後著者と書かせていただく)が書かれた2つの記事の中にこんなことが書かれている。

僕は性欲に支配された時、

女性を人と見なくなる

人生限界太郎 自分の性欲が怖い から一部抜粋

自身の欲求を満たすために、目の前にいる女性(あるいは道端や動画の中にいる女性)を人ではなく女という物質的側面の情報でのみ捉えてしまう。
その人がどんなことを考え、どんなことが好きで、どんな風に生きてきたか。
それらが僕の中で全て女という物質的情報の二次情報に成り下がってしまう。

人生限界太郎 自分の性欲が怖い から一部抜粋

私はこの精力がずっと嫌いだった。
普通の恋愛をするには余りにも邪魔だった。
女性は全て「人」ではなく「モノ」に見えてしまう。
私は「その人」を愛したいのに、「女体」が先に来て「その人」が見えなくなってしまう。

人生限界太郎 「性欲」という才能について から一部抜粋

自分の解釈で申し訳ないのだが、
2つの記事を読ませていただいてこの記事を書かれた著者は
「僕は性欲に支配された時に女性を人として扱うのではなく、女体という物質として見てしまう。そして自分の性的欲求を満たしてくれる物質として見てしまう。」と言っているように自分は感じた。

自分が抜粋した部分と自分が感じた想いを自分なりに解釈した部分だけを皆さまが見てしまうと、著者の事をとんでもない人だと感じてしまう人がいるかもしれない。
昔の自分だったらこの著者は酷い人だなと思っていただろう。
女性からすれば自分の事を女性として扱うのではなく、モノとして扱う人なのだと。

でも2つの記事を全て読み終えるともっと深い想いがある事に気付く。

これも自分の憶測に過ぎないのだが
著者は自分の愛した人に対して愛の表現が独特であるのだけど、
それはその人を信頼していて愛があるからだと自分は感じる。
そして性欲を満たそうとした時、人として見るのではなくモノとして見るのは著者自身が相手を信頼しているからで、ある意味一種の安心感から来る感覚なのだろうと。


著者と自分は性的欲求を抱く相手が違うのだが、不覚にもこんなことを思ってしまった。

この著者のような考え方をしている男性に好意を抱かれてみたい。
そしてその男性が性欲を満たそうとしている時、
著者と同じような考え方で自分に接して欲しいと。
そう思ったのだ。

もし自分が女性で著者好みのような女性であり、著者が自分の事を好きだと感じてくれたのなら自分は著者と一緒に居たいと想う程だ。


少し自分の話になるが
自分の好きな男性にセックスの時だけ性欲を満たすモノのように扱われる事は自分にとってとても幸せと感じるからだ。

相手が自分の事を性欲を満たせるステキな存在と認識しているからこそ、人として見るのではなく性欲を満たしてくれる素敵なモノとして扱ってくれてるのだろう。

性欲の時にモノとして見てくれるのは著者の愛情なのだと自分は思うのだ。


言葉にして書くのがこんなにも難しいとは思わなかった。
自分が伝えたいことが全然書けていない事に気付く。

自分勝手に好きな記事を書いている分は良いのだけど、
人生限界太郎さんという素敵な方の名誉を傷つけない為に
この記事だけではまだダメだと感じている。

著者本人がこの記事を読んだらどう思うか?
それを考えると少し不安に感じている。


性に対してとてもまじめに考えている人。

それは間違いの無い事実だと自分は思っている。

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