技術の進化が必ずしも便利だとは限らないなとセルフレジの話を聞いて思った
1番初めてセルフレジを使ったのはいつだろう?
そう思うぐらいセルフレジが普及してから時が経ったように感じる。
セルフレジを置けないような店(例えばドラッグストアなどは薬があるから出来ないのかなと想像している)を除いて生活圏の殆どがセルフレジに変わりつつある。
僕みたいな人間はどちらかといえばセルフレジを大歓迎しているタイプだ。
レジ係の人を相手にするのがたま~に辛い時があるので、自分勝手に会計して買い物を済ます事が出来る技術は僕にとってありがたいものである。少量だけ買いたい人などは特に重宝するのだろう。
ただ便利さの反面、不便に感じる人がいる事も事実。
セルフレジの操作に慣れていない高齢の方からすれば、セルフレジだと買い物が出来ないという事だってあり得る。買い物が出来たとしても利用する事を控える場合も考えられる。僕の身近に住んでいる高齢の方がセルフレジを避けているという話を聞いて、世の中便利になっているようで実は不便になっている人たちもいるのだなとその話を聞いて考えさせられた。
僕もそうだがある程度慣れているか若ければ何でも使いこなす事が出来るのかもしれないけどもし自分が年を重ねて言った時、時代がさらに進化して最新の技術を使いこなせるかと言われたら正直分からない。全然使えず困り果てるのかもしれない。そう考えると技術の進化と便利さは必ずしも比例している訳では無いのだなと思うのだ。
これは何もセルフレジに限った事ではないと思う。
スマホやネットが普及したからこそ様々な可能性が増えた反面、今まで考えられなかったような事件や事故が増えた。都会化してにぎやかになった反面、子どもが巻き込まれる事故や事件が増えた。
技術の進化や発展は大きな光をもたらすけど、それに伴って闇も大きくなる事だってあり得る。僕は進化や発展を拒絶している訳ではない。むしろここまで便利になって暮らしやすくなった事に感謝している。ただ光の部分だけを見ていると大きな闇の存在に気付かず、その闇の犠牲になる事がこれからも多くなるのだろうと僕は想像している。
便利さの裏にある問題点をどう解決していくかがこれからの時代カギになる。誰もが使いやすく誰もが安心して暮らせる社会を目指すには僕たちがその技術に慣れる事も必要だけど、その恩恵を誰もがきちんと受けられるよう手助けする技術も必ず必要だと僕は考える。