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二拠点山の中暮らしをはじめたわけ(1)
こんばんは、こんばんは。
朝に読む人はおはようございます、昼に読む人はこんにちは。
ニ拠点生活をはじめて十年経ち、いいところと悪いところを書き留めておきたくなったので、登録したきり放置していたnoteをはじめることにしました。
まずは自己紹介がわりに、二拠点生活のきっかけから書きます。
今回はほぼ病気の話。
* * * *
直接のきっかけではないけれど、この生活をはじめるために一歩踏み出した理由は休職だった。
当時はそれなりに忙しく成果主義の会社に勤めていた。
現在四十代の私はバリバリのロスジェネ世代で、最初は契約社員で入った会社だった。
たまたま水があったのか、あるいは運がよかったのか、仕事の内容は嫌いではなくて、頑張ってみたら成果が出て、それが認められて正社員になった。ありがたかった。
同僚には恵まれていたし、上司もいい人だった。認められればやっぱり嬉しいものだし、正社員になってからもかなり真面目に働いたほうだと思う。成果主義の会社らしく、コアタイムはあるもののフレックス制が導入されており、犬を飼っていた私にはそこも助かるポイントだった。
そんな背景があって、任された仕事ではできるかぎりのことをした。
結果、社員になってしばらくしたところで、なかなかよい業績に結びつく仕事にかかわることができ、じゃあ次は中心になって仕事を進めてね、と言われた。これも素直に頑張ろうと思えてしまったので、結果、仕事時間がめちゃくちゃに増えた。
だいたいこの流れでもうおわかりだろうが、病んだ。
当時の私は飼っている犬の頭数も増やしたばかりで、なおかつオタクとして(オタクです)とあるイベントを計画し、主催もしていた。なんていうか、あの当時の私はものすごくエネルギーがあったのだ。なにかやりたい!というパッション。徹夜が苦にならなくて、全力で生きるのがなにより楽しかった。キャパはそんなにないにもかかわらず、自分の手にあるものすべてで頑張ろうとしていた。
休職にいたる半年くらい前から、メンタルは相当に病んでいたのだが、「全部楽しいことなのに頑張れないなんてどうかしてる」と自分にハッパをかけていた。実際、友達とオタクトークしているときは楽しかったし、会社でも自宅でも仕事することだって苦ではなかった。
ただ、疲れは感じていた。疲れすぎて帰宅後玄関から動けなかったり、お風呂に入ると決心するまでに一時間かかって、そのせいで余計に睡眠時間が減ったりした。
仕事でも、必要な連絡入れるのが遅くなったりしはじめていて、心のどこがではまずいなと思っていた。
実をいうと、この病みかけの頃から復職するまではかなり記憶が曖昧なのだが、つらかった断片だけはよく覚えていて、わけもなく悲しくなったり、苛立ったりしていたから、不安でうつ病について調べたりもした。ネットにあるセルフ診断ではどれも「病院へ行け」という結果だったけど、どうせネットの無料診断だし、とたかをくくっていた。調べるくらい危機感があったくせに、なんてことないと思いたかった。
でも、この状態になりはじめたころ、取引先の人が亡くなった。自死だった。
会ったことはなかったけれど、電話ごしに話したことはある女性。もちろん、プライベートな話はいっさいしたことがない。でも知っている人だ。私より若そうな、優しそうな声の彼女が自ら命を断つ選択をした理由はなんだったのか、知る由もないけれど、ただショックだった。自分でも意外なくらい、心が塞いだ。自分が死ぬこと、親しい人が死ぬことばかり考えるようになった。
そのあとからくらいだったろうか(曖昧なので、順番は違うかもしれない)。電車の中やランチで入った店、ラジオやテレビの音など、「自分にむけて話しかけているのではない会話」の意味が聞き取れなくなった。
一生懸命聞こうとして、一瞬わかった気がしても、なんの話をしていたか言おうとすると言えない。感じとしては、ほとんど知らない言語でのおしゃべりを聞いているみたいだった。
自分に向けて言われたことは理解できたし、日によっては、熱心に聞いていれば把握できることもあったのだが、この「なにを言っているかわからない」という症状はこたえた。
しんどかったけれど、それでもなお、私は大丈夫だと思おうとしていた。忙しいんだもん、疲れて当然だ。疲れが出てるだけだから、この仕事とイベントをのりきったら休めばいい。
眠れなくなり、食事も苦痛になり、出社しようとしても駅前のドトールで泣きそうなのをこらえてからじゃないと行けなくなり、それでも大丈夫、大丈夫、と言い聞かせて無理を続けて、当然のように身体もだめになって、私は深夜の会社で倒れた。
もうフロアには誰もいなくて、床でうんうん数時間もがいたあと、這うようにタクシーで帰宅し、家族にはなにも言わずに、次の日のコアタイムギリギリには出動した。仕事もした。でもそこが限界だった。
夕方、なぜかはっきり、もう無理だ、と感じた。
そのまま会社のパソコンでメンタルクリニックを検索し、会社の電話でクリニックにかけた。今思うと電話くらい自分のスマホからするべきだったけど、たぶんそういうことを考える余裕がなかった。私用に使ってすみませんでした。
診察時間はもう終わりそうだったけれど、電話したクリニックは来れば診ると言ってくれた。会社と自宅の中間くらいの、普段行かない駅のクリニックだった。もうだめだと悟っていたのに、まだ違うかもしれない、一週間くらいでよくなるかも、という気持ちがあって、会社の人にも家族にも知られずに行けそうなところを選んでいた。今思うと支離滅裂だ。会社のパソコンと電話を使っといてなに言ってるんだって感じ。
それくらい、だめになってた。
クリニックではもちろん、ばっちりうつ病の判定で休職するように診断書が出たのに、私は悪あがきした。仕事は家でもできることがあるんです。会議はもちろん出ないし出社しないけど、メールでやりとりできることは続けてもいいですか。そう先生にきいて、ダメです、と言われた。
言われたのに会社でも、できることはしたいと申し出て、もちろん却下され、翌日から強制的に休みになったけれど、初日はひたすら悔しかった。なんでだろう。なにもいやじゃなかったはずなのに。悲しいことはあったけど、引きずるほど親しい人じゃない。なのになぜ、と自分を責めて、早く復帰したくて薬を飲んで、自分のパソコンで仕事の日報を読もうとして、電源が入れられなかった。
そこで急にすとんと気持ちが途切れた。
とても仕事なんかできない、と納得したというか、これはもうどうにもならない病気なんだと受け入れることができて、結局半年、休職した。
病気だからな、と思うと自分を責めるのも面倒になって、オタクイベントもほかの人に預けて、ほんとになんにもしなかった。なにもしなかったから、記憶が曖昧でも仕方ないかもしれない。記憶しておけるほどのことがなにもなかった、ということだから。
ただ、犬の世話だけはなぜかできたので、私ほんとに犬が好きなんだなあ、と思ったのは覚えている。自分自身よりも犬のほうが大事だから、自分のために水は飲めなくても、犬のために水は用意できる。自分のことも家族のことも、嫌いというよりどうでもよくなってしまった私をどうにかつなぎとめているものは、そのとき本当に犬だけだった。
そんな状態だったので、自分のことは疎かでも気にしなくなった。やりたいと思うことがなにもないなら、やらなくていい、ていうかできないんだし、と開き直った。
じゃあしっかり休めたのかというと、「休養できた」とは感じなかった。むしろひたすら、なにもできない苦痛と戦ってる気がしていた。
あの、立ち上がることどころか息をするのも億劫で苦痛な感覚はあまりにも鮮明に残っていて、できれば二度とあの思いはしたくない。
そんな感じで半年戦い、どういう経緯か覚えてないけど、先生が大丈夫と判断したので復職することになった。なんの装備もないまま放り出される気がして不安だったが、これ以上休めないなという体感もあって、おそるおそる出社した。
意外なくらい、仕事に戻るのは簡単だった。普通に話せて普通に働いて、残業しないで帰ってきて、できた、とすごくほっとした。
でも同時に、もう二度と、復職前のようになにもかもに対して情熱的に頑張ることはできない、とも感じた。特に仕事では、二度とないだろう。休職中は感じなかったのに、この日初めて、自分の中から失われたものがあるのだと知った。
ファッションを楽しむこと、メイクを楽しむこと、旅行に行くこと、おいしいものを食べること、本を読んだり映画を観たりすること。同人誌を作ってオフ会すること。仕事でいろんな人とかかわって成果を出すこと。
そのどれもが色あせて、私にとっては大事でも、大好きなことでもなくなっていた。
〈続く〉
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