「ある夜(覚書) 」横光利一

 横須賀行の品川驛ホームは海近い。ここに立つてゐると線路も無數に見え、その上を東西に次から次へと間斷なく辷つて來る省線の乘り降りする客はたいへんな數である。中原中也君の葬に鎌倉へ行く途中だが、ふと故人の最後の詩をそのとき私は思ひ出した。ビルディングや驛の口から人の溢れ出て來るところを詠んだもので、
 出てくるわ出てくるわ出てくるわ
 とこのやうに繰り返してあつたものだ。この夏故人はどういふつもりかひよつこり私の家へ訪ねてくれたが、初めて來てそれが最後となつてしまつた。そのときには有名な氏の元氣さも鳴り沈め、澄み透つた眼だけがよく光って据つてゐた。種々な腹綿を食ひ破つて來た眼である。出てくるわ出てくるわといふのも、もう口を拭くのも忘れた動かぬ豹の物憂げな眠さであつた。ときどきこの豹は意外な所へ踊り出てゐて耳を喰ひ破られた物凄さのまま、また突如としてどこかへ姿を消すのが例であつた。私は故人とはあまりよく知らず交際も特にしなかつたが、故人の噂は絕えず私に群り襲って來てやまなかつた。ある冬の夜、偶然に私は氏と初めて逢つた。
「僕はあなたに注告をしますが、あなたはもう人と逢はずに街の中へ越して來なさい。 そして、電話をひいてときどき話をするやうにしませんか。」と中原君は私に言つた。これと同じ注告をしてくれた人は他にもあるが、年齡の若い人で作品の注告をせず、初めて逢つていきなり生活の注告をしてくれた人はごく少い。 この詩人はこれはただの詩人ではないとそのとき私は思つたが、この人は噂に違はず生活に槪念のなくなつてしまつた人と見えて、その場で周圍の人も介意ず唄ふ歌は、どの歌も節廻しが同じで御詠歌のやうにひどい哀調を帶んでゐた。私は人と逢ふのはこのごろ疲勞を感じるときとてよく中原君の忠告を思ひ出す。
 中原君の葬式は人數は少なかつたが近ごろ稀に見る良い葬であつた。 鎌倉五山の一つの壽福寺といふ禪寺で、裏には實朝と政子の墓もあるといふ。杉の大木の竝んだ間の石疊を踏んでゐると、ふと踏み應へに覺えがあつた。よく見ると一度行つたことのある佐佐木茂索氏の鎌倉時代の家が横に見えた。 壽福寺は小さいが建物の木めのよく洗はれた手堅さに古雅な美しさが內部から泌み出てゐる。禪堂に立つて暮れかかる杉の樹を仰いでゐると、幹の赤い肌に風のあたるさまが中原君の詩のやうに見えて來た。葬はすんでしまつたのに送る客とてなく、委員の喪も章も杉の陰に疎らで何となく寒い。 花環の下を潜つて名簿の傍へよらうとする河上氏の喪服の肩へ白菊の瓣が散りかかる。 小林氏が私の立つてゐる傍へ來て、
「どうもありがたう。」と禮を言ふ。 薄暗い禪堂の廊下に集つてゐる紋服の人たちも默つて動かうともしない。何をするために動かないのか誰にも分らぬ様子のままに、近づいた曇り日の夕暮の下で、菊の白さばかりが強く鮮やかになった。だんだん足もとが冷えて來た。
 この葬に集つてゐた人々は佐藤正彰、 中島健藏、大岡昇平、永井龍男、深田久彌、靑山二郎、中村光夫、河上徹太郎、阿部六郎、小林秀雄、島木健作、菊岡久利、草野心平、伊集院淸、林房雄氏等このやうな人達である。それぞれ一度は詩心のために底へ足をつけた人々だ。
 落栗の座を定めたる窪みかな
 ふと井月の美しい名句が浮んで來た。 何となく中原君の葬はこの句に似合ひの葬であつた。
 夜更けて家へ歸ると京都から「茶道月報」が届いてゐて、口繪の寫眞に牧溪の柿栗の圖が出てゐた。この畫は私には初めてであつた。一生乞食をしつづけた井月の落栗の句と言ひ、壽福寺の禪堂と言ひみなこの柿栗の圖と等しい見事な平凡さである。しばらく見てゐるうちに、人おのおの何が自分を成長させるものか知らぬのだとふと思つた。自分の氣附いたものなどはそんなに自分を成長させてゐないのではないかといふ疑ひが次第に強く起つて來た。こんな考へは實は非常に危險である。またこのやうな疑ひは、いつも誰にも朦朧と頭の一角に忍んで來てゐることも事實である。 しかし、牧溪の柿栗の圖を見てみるとそれがもくもく形をなして強く動いて來るのである。 私は中原君もこれに一番困つたのではないかと思ふ。かうなれば人は手綱を放れた馬になる。
 支那から來た禪宗の僧であった牧溪のこの柿栗の圖は、宮本武藏が見てゐて二刀流を發明した繪と言はれてゐる。もし間違ひであつても事實らしい繪である。 圖は左方に葉をつけた三つのいが栗と右に四つの柿が竝べてゐるだけだが、なるほど武藏の發明の原因がよく分る。 左方の栗は寫實的に強く描いて實物を現し、 右の柿は精神の正しい姿を象徴的に淡くぼかして描いてある。道元の鳥飛んで鳥に似たりである。自然と純粹である。私はこの畫を見てゐてまた全く別の観念の生じて來るのを覺えた。それはパリにゐるときふと取り上げた文藝春秋で小林秀雄氏と正宗白鳥氏と論爭してゐるところであつた。 小林氏は思想は現實から放れたから良いのではないかと言ふのに對し、正宗氏は思想が現實から放れてどこが良いのだといふ、まことに厄介な論戰であつた。ところが、この牧溪の柿栗の圖では現實を示す栗と、思想や觀念を示す柿との間を一枚のぼかした朧ろな葉で縛ぎとめて構圖の中心としてゐる。牧溪とは全く違ふがスピノーザを讀んでゐても彼の困つたところはやはり柿と栗との縛ぎ目であるやうに見受けられた。觀念と實體との連絡を何によつてつけるか發明困難な悩みがいたるところに現れてゐるが、これを縛りつける辯證法といふ後世の哲人の發明も、宮本武蔵の二刀流に似てゐてただ運動の精神の説明に濃淡をつけただけのやうに思はれる。ある夜私は家内をつかまへ、兎が前にゐる龜を追つかけるがどうしても追つつかない論理の話をしようとすると、家内は手を横に振つてもう御免御免、兎は足が龜より早いから追つつきますと言つて聞かうとしない。 作者といふものは小説の勉強をこのやうな意外なときにふと何心なにごころなくしてゐるものだ。トルストイは觀念と實體を縛ぐ方法を信仰によつて縛がうとしたが、やはり我の方が勝つて行き斃れた。
 細君に虐め殺されたといふ説もあつたやうだが、私はあれは實體に飽きたのだと思ふ。人が人をやつつける場合も、多くは自分の觀念が他人の實體をやつつけてゐるだけで意味をなさぬ。自分の觀念が自分の實體を見つけて獅し噛みつくだけが勢いつぱいだ。 思想とは觀念へ渡ることか、または觀念から實體へ渡ることか、あるひは實體から實體へと飛び移ることであるか、われわれの思ひもこの疑問から遠く放れた無限の彼方にあるのではない。
 朝顔に我は飯くふ男かな  芭 蕉
 この句は觀念の集積に惱まされつづけた句である。自意識の整理に疲れ果てた結果が、このやうに茶碗を投げ出したやうな句になつた。 武藏が一刀を敵の正面に突き出しつつ、他の一刀を上段高く構へてゐるところは敵に錯覺を起さしめて斬りつけるためではない。自分を防ぐためである。朝顔に我は飯くふ男かなと頭がなつては、相手に斬りつけられるばかりである。 敵とは常に他人ではない。 他人が敵ならも早や世の中はこれほど樂なやさしい現場はない。ただ政治さへ氣をつけてやれば良いのだ。眞劍勝負の前に武藏が神前まで行つて拝まずまたそのまま引き返して來たのは、二本も刀を使った贅澤な極意に恥ぢたからだ。 人間に眼が二つづつあるといふのはただ事ではないのである。もし眼がもう一つ頭の後にでもあつたなら、人間は生れて五年もたつと大人になつて死んでしまふだらう。
 小田原城を秀吉が攻めるとき利休に命じて竹の花入を造らせ茶事をやつたことがある。このときの竹の花入が名高い「園城寺」といふ名器であるが、實はこの竹は攻められてゐる北條早雲が韮山竹を切って秀吉に、退屈であらうから茶會に使って貰ひたいと贈ったものである。後年これが京都の茶人の家原自仙の手に這入った。名古屋の茶人の野村宗二が見たくて堪らず拝見を申込むと、返事は來年まで待つてくれとのことであつた。さて來年になつて來てくれと云ふので宗二が行つて見ると、自仙の庭の美しい竹が全部切りとつてあった。後年、自仙の家が貧しくなつたときこのただ竹であるだけの名器を持たせ、江戸深川の冬木小平治の所へ使ひをやり、千兩の金位であるが八百兩に負けるから買つて貰ひたいと申し出た。 すると、冬木は默々と自仙の使者にその竹花入を持たして京都へ歸らせてから、すぐその後さらに江戸から自分の使ひをわざわざ京都までたてて金千兩を持たせ、花入をうやうやしく頂いて來させたと言ふ話がある。この話にはいろいろ理窟をつけたくなるが、このやうな遊びも近ごろではただ贅澤な遊びだと片づけてしまふのが公式であり論理である。
 花筒のうちで一番やくざな竹の筒を最も高價な花筒とした茶人も、考へればわが國の文化の爛熟がもたらせた結果とも見える。しかし、ここにも日本の自然主義の頂點が見えてゐる。 一切を馬鹿にすることをお茶にするといひ、茶化すといふのもすべて實體と觀念との遊離の困苦こんくが、このやうな態をとつて日常に現れざるを得なかつたからであらう。 大阪の實語に他人が難しい言葉を使ふと、「えらう苦勞して難しいこと言ひよる。」と一突きに刺す言葉がある。「何んど儲かることありまつか。」とすぐ言ふも茶化してゐるのだ。觀念から觀念へ頭を突つ込んでゐる者の面前で、「儲かることあらへんか。」と言はれれば誰だって二刀流の發明ぐらゐは出來るものだ。ところが、流石の大阪人も困つたことが一度あつた。 それはサビエルが初めて日本へ來たときであった。 サビエルは日本人を見ると、汝ら惡魔よ神を信ぜよ、といきなり頭から言つてかかった。聞き手はみなげらげら笑つて、それなら神を見せよ、どこに神が見えるかとサビエルに迫ると、空氣は見えるか、まして空氣を造りたまうた神は見えるかと應へる。敏感な日本人はこれには頭が上らず皆やられていくのである。この簡單な問答が九州から京都まで攻めのぼつて次ぎから次へと人々を落していつた。昭和になって唯物論の逆風が吹きさかつて來たときにも、酒を飮んで見よ、精神は變るぞといふ單純な論理が、當時の知識階級を攻め落した。竹筒を最高の花入として千金を費し求める日本人の觀念は、茶化し得られる限界を感覺に置いて進んで來た。しかし、現在はも早や酒や空氣では日本人も瞞されなくなつて來た。今や人々の引っかかつて惱まされてゐるものは極限概念といふ理性の狡智こうちである。 スタヴローギンが數學といふ形をかつて出て來たのだ。
 理性の狡智に最後まで最も激しい戦ひをするものは、私は日本人であらうと思ふ。 山中鹿之介がお茶狂人の主人の尼子經久から貰った大海茶入を首に懸け、戰場から戰場へと馳け廻り、死ぬまで放さなかつた姿はこの狡智との格闘である。ゲッセマネのキリストの祈りを、いかなるときでもわれわれは祈り續けねばならぬとデカルトは言つたさうだが、われわれは現在何に祈りを上げてゐるのであらうか。竹入を見せる家原自仙が庭園の竹を盡く切り倒したのは、自然の神に祈りを上げたのであつた。方正圓滿なギリシヤが滅んだときは、政黨の狡智が無數の分裂を企てて統一者がなかつたからである。信頼を狡智に置くとき統一者は姿を現すものではない。プラトンの唯一の缺陷はギリシャを救ふことが不可能だつたことだと思ふ。しかも、多くのものが今これに頼るのは、理性の狡智にほどこす術の失はれた祈りであらう。 冬木小兵治が八百兩の竹筒を千兩にして、使ひを深川から京都まで送つたのは、自仙の祈りを祈りついだまことであつた。われわれは柿と栗との靜物の圖を見せられれば、生命をやりとりする二刀の劍をまで思ふのである。ヨーロッパの靜物と東洋の靜物とは見る眼がすでに觀念の奥から違つてゐるのだ。
 私は華道全集といふ生花の本を十二巻ばかり貰つたのでこのごろ眼を通してみた。 華道の初めは聖徳太子の前であり、それが現在のごとく無數の流儀の分裂を始めたのは、明治四十二年以降である。日本の藝術といはれるものの中で、華道ほど單純なものはないと思つたが、最も單純なものであるだけにここに現れた分裂の姿は、われわれの無視出來ぬものがある。 天地人の三位の構への整然たる象徴に、四十二年以後のヨーロッパの寫實主義が侵入して以來、華道の天地人の趣向までが科學に近づいた。その結果は華道といふ象徴が現實を追つかけ追つかけ、野の花をそのまま投げ込む盛り花とまでなって來た。俳句の寫生主義が、物そのものに徹する精神の意義を、發明すると同時に堕落を開始した明治の中期についで、華道まで寫生となつて來たのである。 華道が山野の生きた花や枝をそのまま折りとり、これを寫生とする自然への徹底の工夫は、工夫開放となつても早や自然卽はち藝術といふルポルタージュの唯物主義に變化し、無工夫の工夫となつた。シュールリアリズムである。われわれは徹底といふことを愛して來たことは事實であるが、徹底には自ら常に限界がある。 限界のない徹底はシュールリアリズムといふ死の工夫だ。 現實と觀念との限界を感じること、これを私は最も健全な心理だと思ふ。
 いまだに何人にも分らぬことの中最も重大なことは、人間の心理といふものは現實から起つて來るものか觀念から起つて來るものかといふ疑問である。科學、哲學、文學の最困難な場所はすべてここであつた。またすべての論爭の原因も皆ここに潛んでゐると見ても良い。 觀念と實體とは同じものだと錯覺する觀念と、 これを違ふと感覺する知性との二つが頭腦の中に巢喰つてゐる以上、物と人との限界といふこの世の中で何ものよりもわれわれを苦しめた怪物の正體は、分る道理がない。われわれは武藏のやうに何人も二刀の劍の使用法を發明しなければならぬ。武藏が神に祈願をこめる自身を恥ぢたのは彼の臆病さを示したにすぎぬ。
 私の過去は自然に對してこれまで極めて傲慢無禮であつたと思ふ。しかし、それは自然を知りたいと願った私の觀念の仕業であつた。自然より自分の觀念を引き放し、どのやうに自分が自然に抵抗しつつあるかを見届けぬ限りは、人間の意志の強弱も存在の理由も分らぬのだ。 私は自分がつひに自然に負かされるであらうとよし譬たとへ觀念したところが、負けるからにはどんなに負けるものであらうかと、その調子を知りたかつたからにすぎない。私の書くものはすべてこの負ける方法の羅列である。このやうな心の上に傑作が生れようとは夢にも私は思はないが、二刀の劍だけは私もやうやく感じることが出來た。私は自分の頭と腕とに政治を行ふことが下手かつたのだ。しかし、下手ければ下手いでまた何か變つた駒が出來て來るにちがひない。人間は失望なんか絶體にしてはならぬ。飽くまでも自分と爭ふべきだと思ふ。
 私の家の近所にある靑物屋で、この男ほど世の中で不幸な男はないと私の思つてゐた人がゐる。私と特に何の關係もない人であるがこの人物のことを書けば何人にも、その人に較べればまだ自分は幸福だと思はせるやうな人である。つまり人生に於ける運命の英雄なのだ。私はこの人について覺書を一度書いたことがあるが、 發表することは見合せた。ところが、その人物が今日死んだ。私は何となくほツと明るくなつた思ひである。 突然病氣になって死んだのだが、 彼に突然生命を奪ふ病氣が起つたといふことに何の不思議も感じない。觀念といふものはいつまでも肉體を虐める権力などないのである。
 自分の身につけてゐるもののうち最も直感を重んじ、その直感をもつて自分のつまらぬ人間であることを眞に自學したのはデカルトであつた。倫理といふものはこの心から發するより法はない。―覺書といふものは氣がつくと、絕えずいつでもただ一つのことを書いて廻つてゐるものである。ただ一つのことは、どうして自分は自分の愚しさから回避し、逃げのびようかと企てる理由を自分に言ひきかせ、さうしてとどのつまりは逃げてはならぬぞとなだめすかせる工夫である。もし人から絕まれなければ、私は覺書など何のためにも書きたくはない。私の一番になしたいと思ふことは人々を賞讃したいことである。どうも私は根から現實主義者の作家根性が脫けぬと見える。そのくせ私はときどき藝術家よりも、最も善良公平な警官になりたいと思ふことがある。私は母から生れて來た以上虚無は嫌ひだ。いかなる偉大な思想といへども、それを生んだ人物は母なくしてこの世に出て來た例もなく、またその者が自分の母の腹から出て來たところを見たものは一人もない。その者がたとへ虚無を讚美しようとただそれはそれに憧れてゐる理想主義者にとどまる。 戰争が一方で起つてゐるとき、落ちつき拂つてペンをとつてゐる度胸は、も早や何も響かぬ觀念の訓練の効果であつたにしろ、實はそれは何一つもこの世で知らなかったものの度胸にも通じる。 戰争が起つても胸一つ轟かせることもなく、ペンをもつたフロオベルのペン先きの動きなど、誰が見たいといふのであらうか、噂といふものはいつでも人々が勝手にするものだ。噂に神聖なものの現れるのはそれが公式となつたときである。あらゆる公式はすべて神聖公明な嘘である。
 地球の上のどこかの國民の間に戰争が起れば儲け、平和が來ればまた儲けるといふ仕掛けを造つてゐるある人種といふものは、必ず地上のどこかに棲んでゐるにちがひない。これはたとへ人々の空想であるとしたところが、この空想だけは必ず事實として存在してゐることに疑ひはない。何人にも見れば分る。理性の狡智があたかも鰻の頭のやうに、摑めば摑んだだけ前へ延びて果はてしがないといふこの知性の本能。 ――これに對して人々が羨望すればするほど、鰻はまた養分を實體の世界と觀念の世界の兩方から吸ひとつて太つていくといふ仕掛け。これに屈服を示しても相手は儲け、これに反抗しても相手は儲けるといふ分產主義。人間に眼が二つあつても實は一つに見えるといふことと、地球は圓いといふことについてその人種は太古から知つてゐたにちがひない。ただそれを明さぬのが政治である。歷史とは二つの眼で圓を見る幾何學である。私はこの圓と眼の距離とを批評するのが文學だと思ふ。距離ほど人の頭を狂はすものはない。むしろ時間といふ延長よりも距離といふ空間がわれわれの頭を惱まし、且つまたその兩眼間の距離がさらにわれわれの見る性格を形づくる。 かう考へてゆくと私にはすべてが數に見えて來る。小說とはどのやうに下手まずいつまらぬ小說といへども、人間を數學から救ふことだ。そして、これを奇跡といふのである。 祈らずして小說の出來よう筈はない。いかなる低劣な小說もここからは逃げられぬ。ただ問題はどこでどうしてわれわれは祈りを上げるか、といふ身の持ち扱ひだけに祕密が存する。
 われわれの誇りはどうしても救はれぬと思ふときに生ずるある明るさが誇りである。ただこれのみが絕望を與へない。精神といふものは必ず殘るにちがひない。私は自分の子供に言ひたいことは、いかなることがあらうとも絕望だけはするなと言ふことだ。


朗読に、読書に、ご自由にお使いください。
出来るだけ旧字旧かなのまま、誤字脱字の無いよう心掛けましたが至らない部分もあるかと思います。ごく個人の物ですので何卒ご容赦下さい。

初出:1938(昭和十三)年一月一日發行『文藝』第六巻第一號
   原題は「覺書」
底本:河出書房新社 定本横光利一全集第13巻

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