エルマー、君は勇敢な少年だった
note公式さんが #読書の秋2020 というものを開催しているようだ。
少しでも多くの人に自分の書く文章を読んでもらいたいという欲が出てきた私は、最近このお題というものに挑戦し始めている。
課題図書はどれも魅力的だったが、まずは私の人生を彩る「読書の楽しみ」を教えてくれた本について想いを綴らせていただきたい。
エルマーとの出会い
『エルマーのぼうけん』という絵本をご存じだろうか。
「エルマーのぼうけん」シリーズは、りゅうの子を助けに行った9才の男の子エルマーが、機転をきかせて危機をのりこえていく冒険物語です。1948年から51年にかけてアメリカで出版され、半世紀以上たった現在でも多くの子どもたちに愛されています。
引用:エルマー|みんなの人気者|福音館書店
私がこの『エルマーのぼうけん』シリーズと出会ったのは保育園児の頃だ。
その保育園では絵本読み聞かせのような時間があった。そこで保育士さんが読み聞かせてくれたのが、この『エルマーのぼうけん』シリーズだった。
読んだことがある人はわかるだろうが、絵本にしては文章も長く内容量の多い物語だ。
保育士さんは一章分だけ読んで「続きはまた明日」と園児たちに告げた。私を除くほとんどの園児が飽き始めていることに気づいたのだろう。
私は「えっもう終わり?いいから続きも読んでよ」という気持ちであったが、自己主張をすることが苦手だった当時の私は何も言わず次の日を心待ちにすることにした。
嫌いだった保育園に行きたくなった
私のお世話になっていた保育園には、女の子が私を含め4人しかいなかった。人より行動が遅く、自己主張をしない私は女の子グループの中においていじめの格好の的だった。
いじめの内容に関しては詳しく書きたくないのだが、善悪を知らない子供は大人が思っているより陰湿で残虐なことをする。それだけは伝えておこう。
いじめられている、など母には申し訳なくて言えなかったが、行けばいじめられる保育園は私にとっては地獄そのものだった。
「保育園、行きたくないなぁ」といつも心の中で思いながら母の運転する車に乗り込んでいたことを覚えている。
そんな私の保育園生活を、この『エルマーのぼうけん』シリーズは変えてくれたのだ。
いじめなんかどうでもいい、早くあの物語の続きが知りたい。そんな気持ちで母の車に乗り込んだ私は、初めて「保育園に行きたい」と思っていたのだ。
続きが知りたいという自己主張
保育園ではその後も『エルマーのぼうけん』を一日一章ずつ読み聞かせしてくれた。物語の内容にいつもワクワクドキドキし、嫌いだった保育園で唯一の楽しい時間となった。
だが、エルマーの物語にのめり込み始めた私は保育園で読んでくれるペースでは物足りなくなっていた。
自己主張が少なく、ほとんど感情や言葉を表に出さなかった当時の私が、
「せんせい、エルマーのつづきがはやくしりたいの。どうしたらいい?」
と保育士さんに思い切って話しかけた時、彼女は驚きと嬉しさを混ぜたような顔でこう言った。
「そっか、マコトちゃんは本が好きなんだね。お母さんにお願いして、図書館に行ってみるといいよ。エルマーの続きもそこにあるから」
はじめての図書館
ここまででわかるかもしれないが、幼少期の私はとにかく感情を表に出さず無口な子供だった。
そんな私に対して母は「何を考えているのかわからない」と困惑していただろう。何せ兄が感情表現豊富の自己主張全開マンだったから。
何を考えているかわからなかった娘が突然
「おかあさん、トショカンっていうところにいきたいんだけど、つれていってくれる?」
と言ってきたのだ。母は前述の保育士さんと同じような表情で
「じゃあ、今度お母さんの仕事がお休みの時に一緒に行こうね」と嬉しそうに言った。
初めて訪れた近所の市立図書館は、不思議な世界だった。
穏やかな静けさの中に少しだけ混ざる人間の行動音、心落ち着く紙の匂い。
「一日中ここにいたい!」と心の中で歓喜の声を上げていた。
受付のお姉さんに『エルマーのぼうけん』シリーズの場所を教えてもらい、図書館カードを作ってもらい、すぐに全作(3冊)借りて家に帰った。
母は「もっと色々見てもいいんだよ?」と言ってくれたが、私はとにかくエルマーの物語の続きが読みたかったのだ。
それに図書館で母を待たせるのも申し訳ないという気持ちがあった。せっかくの休みの日だ、母には家でゆっくり寝ていてほしかった。
本の世界にのめり込んだ
家に帰ってからは『エルマーのぼうけん』シリーズをはじめから読み始めた。
途中までの内容は読み聞かせで知っていたが、文字を読んで物語を辿るとまた違った情景が頭の中に描かれていった。
食事、お風呂、睡眠、それ以外の余す時間は全てエルマーの世界に没頭していった。
様々なピンチを賢く乗り越えていくエルマーはとても勇敢で、本を読む私はずっと彼を応援しながらその後ろ姿を眺めていた。
ハラハラドキドキ、きっとエルマーと共に私も物語の中で冒険していたのだ。
いじめられてもエルマーが助けてくれた
記事序盤に書いたように、私は保育園で陰湿ないじめにあっていた。
当時の私は「いじめ」という概念はわからなかったが、「他の女の子たちにひどいことをされることがつらい」と夜布団の中で泣いていた。
しかしエルマーと出会ってからその日々が変わった。ひどいことをされても、「エルマーだったらこんな時どうするだろう」と考えるようになった。
実際に少しだけ反撃のようなことをしたこともある。
あまり詳しく書くことはいかがかと思われるが、砂場遊びをしている私に向かってくる女の子を簡単な落とし穴にはめたりした。
「こんな危ないことをしたのは誰ですか!」と保育士さんが怒っていたが、私は正直に
「つくりかけのおしろがあったのに、そこにその子がきちゃったんです。チカシツがあってあぶないから、わざわざだれもこないすなばのはじっこにつくってたのに!」
ともっともらしく被害者面をしながら弁解した。勿論、いじめっ子が私に向かって一直線に歩いてくることを計算して落とし穴を作った、ということは秘密にして。
結局私へのいじめが終わることは卒園の日までなかったが、どんなにつらいことがあっても「エルマーだったらどうするだろう」と考えるだけでワクワクして乗り越えることができた。
エルマーという勇敢で賢い少年が私を助けてくれたのだ。
私の読書はエルマーから始まった
エルマーシリーズを何周も読んだ後、図書館にある手近な本を借りては読む日々が始まった。
物語に没入して、空想に浸り、それが自分の血肉となっていく。この何とも言えない甘美な体験に何度も酔いしれた。
私の読書はエルマーから始まったのだ。本を読む楽しさ、大切さ、その他言語化できない様々な喜びを教えてくれたのは、エルマー、君なんだよ。
本は良い。読めば読むほど自分の血肉となっていく。
他人の世界を覗くことで自分の世界が広がり、時には美しい宝石を私自身の胸に残してくれる。この世界に本というものが存在していてくれてよかった。
読書をしても腹の足しにはならないけど、本は人間という知的生命体に必須の食料のようなものだと思う。
改めて『エルマーのぼうけん』シリーズを読んだ
この記事を書くにあたって、どうせなら当時の自分と同じように近所の市立図書館で『エルマーのぼうけん』シリーズを借りてくることにした。
懐かしい紙の匂い、親切な受付のお姉さん、ジュエリーショップのように並ぶ素敵な本達。
図書館カードを作ってもらって、エルマーシリーズを抱えスキップでもしそうな勢いで図書館を出ていく私は、まるで保育園児のようだった。
改めて読んでみると、児童向けにしては難解な言い回しが多く使われていることに気が付いた。
そうだった。私はこれを一人で読破したのではない。大好きだった大ばあちゃんに言葉の意味を教えてもらいながら読んだのだ。
大人になった今エルマーを読み返していたら、そんな懐かしい色褪せてしまった記憶が蘇った。
大ばあちゃん、いつもこんな私に付き合ってくれてありがとう。今でもどこかから見てくれてるかな。いつか大ばあちゃんの記事でも書いてみようかな。
もう会えなくなっちゃったけど、ずっとずっと大好きだよ。
さいごに
この記事を書き上げるのに、予想以上に時間がかかった。理由なんて色々あるけど、大切な思い出故に簡単に書くことができなかった。
改めて自分の読書の原点と向かい合う機会を設けてくださったnote公式さん、素敵な企画を用意してくださり本当にありがとうございます。
おかげで大切な記憶を思い出すという予想外の収穫もありました。本は一回読んで終わりじゃないんですよね。
その人の血肉となり、何度も何度も勇気づけてくれる。
私にとってのエルマーのように、かけがえのない本に出合える人が一人でも増えることを願い、この記事を終えることにする。
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