東京人のメリイクリスマス
yosh.ashさんからの"「私」物語化計画" の企画、「#課題小説を読もう」に参加しています。
青空ぷらすさんもupされてたので私もさっそく書きました。
以下、ネタバレありありで感想でございます。
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私は東京に住んだことがない。「君のせいで僕は精神的にダメージ受けて病気になった。けど僕と体の関係持ってくれたらそれ、治りそうなんだ」と、東京に進学した部活の先輩が何かと脅迫の電話をしてきていた。大学を選ぶ時に東京という選択肢もあったけれど、東京へ行けばその先輩からの要求がエスカレートするのは目に見えていた。せいぜい物理的距離を取るのがせめてもの抵抗だったが、それでも時折呼び出され、東京へ出向いた。もちろんいい思い出はない。東京には悪いが、東京にはなんの魅力も感じていなかった。
さて、小説はそんな東京が舞台だ。けれど時代が違う。「戦争が終わってすぐ」という言葉でそれが具体的に1945年であると分かるので、そこからは計算すれば主要登場人物3人の背景が分かってくる。ところで私は勘が鈍い。小説には大抵まんまと騙される優良読者だ。そのため、主人公が本屋で出会った女がかつて関係のあった女…でないことにすぐ気づけず、「12、3歳にまでみるみる若くなって」と来た時には(そうか、同級生か)と思うし。次の「大きくなったね」と言う台詞には内心(それは同級生だからお互い様だろう…)と心の中でつぶやく。そう強く思い込んで読み進んでいるから、女がかつての「唯一のひと」の娘のシズエ子ちゃん(この名前もなかなかインパクトあるけど)、と分かった時には、「なんだ!そうか、そういうことだってあるわな!うん、あるある!」なんて、おそらくは作者がほくそ笑むような、純真な反応をしている、なんか悔しいが。
けれど、私だって騙されてばかりじゃない。ちゃんと物語の隙を狙っている。シズエ子ちゃんって、もしかして俺のことを好きなんじゃ?と言う主人公の妄想が始まった時がそれだった。男の浅はかで無邪気な妄想。ページをめくるごとに妄想は盛り上がりを見せ、仕舞いには「こいを、しちゃったんだから」と言う。脳内一面のお花畑で「わぁい!」と踊っている主人公が能天気すぎやしないか?なるほど、そういう手だな。今回は騙されないぞ。こちらの警戒心が頭をもたげる。頂点まで主人公を盛り上げておいて、転落させる展開が待っているに決まっている。いや、そうだ。そうでなくては物語ではない。私は鬼の首を取ったかのように、今後、この主人公がこのシズエ子ちゃんにこてんぱんにやられるところを想像する。まったく、男と言うのはしょうがない生き物だ。そうだろう?津軽から出てきた男の、どこか田舎じみた単純さ、東京での暮らしで培われたであろう、東京人になるための下世話な処世術。そのくせ何かと東京を評論したがる。物事を知っている風を装う。久しぶりに会ったシズエ子ちゃんにいきなり熱を上げる。総じてどこか滑稽だ。案の定、主人公の独り相撲で、シズエ子ちゃんは別の理由から不審な言動を続けていただけなのに…。主人公からは「東京」と言う都会で暮らすアーバンさが到底感じられない。
とはいえ、この時代、つまり戦争が終わった翌年に都会的空気感を求めるのは酷だ。都市は崩壊し、焼け野原の中にバラックが林立していた時代。けれど、「東京は何も変わっていない」と、作者は主人公に何度も言わせている。これは「東京だから変わらない」のか、「東京ですら変わらない」のか。あるいは「東京でなかったとしても、人間は変わらない」のか。いや、私にとってはどれでもいい。この物語で強調されているのは、間違いなく東京で、しかも、もともと東京が故郷なのではなく、田舎から東京に移り住んだ者の目に映る東京という場所。
東京が故郷でない者に限って東京人であろうとするのはなぜだろう。故郷の高校を出て、東京の大学に入り、そこから「夢をかなえるため」あるいは「何者かになるため」、東京人以上に東京人であることを装う人たちがいる。都心の人口の半数以上がそういう人たちで占められているように思う。あくまでも私の勝手な見立てだけど。東京人と地方人の同時成立は難しい。東京人であるなら地方人であることを放棄する必要がある。非喫煙者は喫煙者ではない。けれど、もとからの非喫煙者よりも、なぜか禁煙に成功した元喫煙者は喫煙者のことを見下すことがある。いや、例えが全然違うけど、でも、どこかちょっと似ている。東京で生まれ育った東京人は捨てる故郷がない。けど東京人になった地方人は地方をいったん捨てる必要がある。一番簡単な方法は田舎を否定して、あたかも自分に東京が十分染み渡っててるように、ふるまって生きることではないだろうか。
その代表が、物語の最後でまったく面白くない会話を延々と続けているサラリーマンだとするならば、主人公は東京人にもなり切れず、では地方人として東京で生き続けられるかと言うと、そこまでの肝もない。故郷には自分の受け皿はなく、かと言って東京は東京人になり切ろうとする地方人ばかり。そう思えば、せいぜい貴族である「唯一のひと」が主人公にとって本当の居場所であったのかも知れない。最初は滑稽でしょうがない男だと思っていけれど、すこしばかり主人公の置き場のない身の上が感じられてくる。もし、先輩の件がなかったら自分も東京へ出ていたかも知れない。自分が東京に出ていたら、いったいどの東京人になっていただろう。
ところで、この物語のタイトルにもなっている、サラリーマンの「メリィ、クリスマアス!」について少し。以前聞いた話だが、西洋人はみなクリスチャンなわけではない。だからクリスマスの時は「メリークリスマス」と言わずに、「ハッピーホリデイ」と言う。けれど、そんなこと日本人は知らないし、金髪碧眼白い肌の人間はみなイエスキリストの誕生日を祝うのだと信じ切っている。サラリーマンが声をかけた米兵はユダヤ人だったのではないか。それというのも、主人公は自分の買った本の種類をわざわざ文中で挙げている。「或る有名なユダヤ人の戯曲集」と。これを最後に出て着る米兵と関連付けるのは私考えすぎか、あるいは、作者がほくそ笑むように私が勘よくそれに気づいたのか。もちろんユダヤ人にクリスマスを祝う習慣は、ない。
主人公の置き場のない心、男としての身勝手な妄想、戦争、落ちぶれた貴族、身寄りのなくなった女、バラックのうなぎ屋、間抜けなサラリーマン、夜の闇、泥。幾層にもなったモノクロ映像の中、シズエ子の緑の帽子と真っ赤なレンコオトだけが、白黒の画のなかでクリスマス色の効果を静かに放っている。鮮やかというよりは、少し煙ったような色だろう、と私は推測する。どこかくすんでいる。それが私の東京のイメージでもあるから。