渡部さんのべろぬげるはっと
「自炊部」をご存知だろうか。え、学校のクラブじゃない?じゃあどっかの会社の話?自炊を推進するための部があるとか。
実はこれ、「湯治」の話。湯治とは1週間~2週間程度宿泊しながら日に数回温泉に浸かる、というひとつの療養方法のこと。リウマチや腰痛、皮膚病、手術の予後など、特に東北地方でこの湯治が盛んにおこなわれている。
湯治に来ているのはおおむね年配の方だ。いくら療養とは言え、働き盛りの人が1週間も2週間も休めない。それに、宿代を考えたらいったいいくらかかるのか。温泉地の宿代を調べたことのある人は分かると思うけど、2食付きでひとり15,000円くらいのものだ。だいいち毎日宿のごちそうを食べていたらさすがに飽きるし、却って体に悪そうじゃないか。まったくもってそのとおりで、そのために存在しているシステムが「自炊部」なのである。
まさに、その名の通り、宿に宿泊しながらにして自分で食べるものを自炊する。湯治場において「あ、自炊部ですか?」「いや、私は旅館部で…」という会話がなされている。旅館部とは普通に宿泊して宿の食事を召し上がる人のことだ。基本的に棟が分かれており、自炊棟とも言われる。これをきいただけでなんか特別感を抱いた人は自炊部をぜひ試して欲しい。
そんな自炊部をこの2月に私も初体験した。
共同炊事場があって、冷蔵庫やコンロをそれぞれ共有して使う。私は初心者なので、ベテランの武司くんのおよばれに預かったり(調理は基本的に二人で別々にする)、簡単な自炊、うどんやサラダや総菜屋さんで買ってきたものを使いまわしたりした。それで結構いけるものである。
泊まっていたのは東鳴子温泉の大沼旅館。
同時期に、渡部さんという常連の人もいて、武司くんは去年も渡部さんと一緒になったらしく「あらー久しぶり!」などと話している。自炊マスター武司は友達までおるんか…、と少し尊敬したりもする。武司くんの自炊についてはまた機会を持ちたいと思うけど、今回は私の初自炊部の話だ。
食事の時間はだいたい似ている。そのため、食事の準備に来ている渡部さんとは台所でよく会う。渡部さんのほかに友達の石田さん夫婦も申し合わせて来ており、食事の支度は渡部さんと石田さんの奥さん二人でやっている。私が昼ご飯の準備で台所にいると「Yukiさん、今日は【はっと】作るからあげるね」と言う。渡部さんがボールで小麦粉をこねていたのを凝視していた私、(お、あれいったい何作ってるんや?…え、もしかして…ピザ…?渡部さんがピザ!?)そんな心の声が聞こえていたのだろうか。
しかしピザではなかった。【はっと】とは、ほうとうに似た煮込み料理だ。ごぼうやにんじん、しめじ、キャベツ、油揚げを茹でたところに少し炒めた豚肉を入れ、味を付け、最後に小麦粉で練った生地をちぎりながら入れていく。油麩や玉ねぎを入れたりもするらしい。
さて、渡部さんと石田さん夫婦は一日に5回も温泉に入る。
朝6時
朝10時
午後3時前くらい
夕食後
寝る前
お昼前10時は風呂場の掃除の前に、午後3時前というのは、旅館部のチェックイン前にと、人が少ない時間を狙って入る算段なのである。この情報は武司くんから教えてもらった。しかし、みんなもそれを知っているので、必然的に渡部さん、石田さん夫婦と一緒になる。一緒になるうち話をするようになった。私は百姓だから、農作業の話はよく分かる。渡部さんは登米でニラを作ってその売り上げでニラ組合でハワイに行ったそうだ。「ニラでハワイだよ!ニラでさ」という渡部さんの笑顔がいたずらっぽい。
【はっと】ができるのは夕方5時くらいだからそのころ取りに来て、と渡部さんが言う。(なるほど…じゃあ、作り始めるのは4時すぎくらいだな)。郷土料理の作る過程が見られるなんて、こんなありがたいことがあろうか。見なければ必ず後悔するとまで思って私は早い目に台所へ向かった。
写真に見えている薄い油揚げもこのへんの特産である。野菜をザクザクと切っていく。こうなると流れで私もバンバン手伝う。渡部さんは冷蔵庫に寝かせてあったはっとの生地をこねこねして味を付けた汁へちぎって入れていく。
「固さは耳たぶくらい」
「生地が手に付くようではダメ」
薄くちぎって入れるのは食べやすいため。あとこれのほうが早く煮える。ちぎって入れる人、それを汁に沈める人と二人一組でやると作りやすいと教えてくれた。私もちぎる係をさせてもらう。なかなか渡部さんのようにうまくできない。
味付けは?と聞くと。
めんつゆ
あと、薄口しょうゆ。まあ、自炊だもの。いろんな調味料は持ってこれないよな。
できあがって味見。おいしい。外は雪。からだの芯まであたたまるおいしさだ。「べろぬげるでしょ?」「べろぬげるね」渡部さんと石田さんが笑っている。べろぬげるとは、べろが抜けるほどおいしい、という意味の方言だと言う。「べろぬげる…べろぬげる…」二人の発音を真似してもぜんぜん上手に言えない。
温泉に浸かっている時、渡部さんと石田さん夫婦が話しているのを聞く。当然現地の言葉だ。外国に行って最初は自分もがんばって英語を話してるけど、脳がストライキを起こし放心状態になることがある。それと同じ状態が起こるため、みんなが何を言っているのがぜんぜんわからなくなる。これこそまさにアウェイの実感だ。
自炊はそれぞれ独立して作るのが基本。自分の飯は自分で。もちろん材料も自前で用意をする。一緒に何かをやる必要などぜんぜんない。必要なのはみんなの台所をルールに従ってきれいに使い、維持することだ。このような自炊湯治は古くさいだろうか。私はそうは思わない。ただ、現代のような忙しさにマッチしなくはなっている。旅館大沼さんでは、ワーケーションを含めた新しい湯治を提案している。興味のある人は、まず旅館部から攻めてみてはどうだろうか。
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