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夜更けのラーメン一杯

嫌なことや辛いことが続いたりするとなぜか私は必ず同じ場面のとある記憶ばかりを思い出す。

もう十年以上前のことだ。仕事でとある地方の雪国へ行った。まだ未熟で今よりずっと経験不足だった私は慣れない土地で失敗ばかりしていた。それでも負けん気の強さだけを頼りに、と言うよりは半ば痩せ我慢の気持ちだけでなんとか毎日歯を食いしばってやり過ごしていた。

早く東京に帰りたい。車社会ゆえに仕事場の近くにある王将以外のレパートリーがほぼなく、食事が日を重ねるごとに億劫になっていた。ホームシックが限界まで押し寄せていた時でさえまだ最終日まで10日ほど残っていたという有様である。

ホテルと職場と王将。まだNetflixもアマゾンプライムビデオもなかった時代にこの3拠点をグルグルと周回しながら上手くいかない仕事のストレスが溜まっていった私は人生で初めてノイローゼというものにかかりつつあった。元々、超がつくほど楽天家な私が鬱の様な状態にあったというからよっぽどである。

仕事が上手くいかないうえに毎日餃子。もうニンニクなんてウンザリしていたが王将に入って餃子を注文しない人生なんて考えられなかった当時。負のスパイラルに陥った私を見兼ねてか、その地方に勤務する職員の方が夕飯に誘ってくれた。

「こっちの郷土料理、まだ食べてないんでしょ?行きませんか?」

聞けば車を出してくださるという。断る理由なんてあるはずもなく私は久しぶりに笑みを浮かべていたと思う。

仕事場から車で15分くらいの場所にある、いかにも雪国の飲み屋というところに案内された。席はカウンターのみ。割烹着を着た小ぎれいな中年の女将が一人。薄暗い店内では控えめなボリュームの演歌がBGMとして流れていた。

「こちらにビールと、山菜のおひたし。あと一人前で鍋ね」

慣れた感じで手早く注文を済ませてくれた職員さんはウーロン茶片手にタバコを燻らせていた。ビールをもらったは良いが、当時の私はあまり呑めないタチだったので正直なところ閉口していたと思う。それでも、飲酒運転にならない様にウーロン茶を飲んでまで郷土料理の飲み屋に連れて来てくれた彼には恩義しか感じていなかった。

出てきた料理はどれもそれなりに美味く、芝居の下手な私でもなんとか相手に満足してもらえるくらいの喜びを表現出来ていたと思う。

「東京の人はこういう素朴なん、好きですよね。東京では案外こういうの食べれないから」

そう言って彼は満面の笑みを浮かべていた。しかし実のところ私は心の中で彼に謝罪していた。

ごめんなさい。

先週めちゃくちゃ美味い同じ料理を食べさせてもらってました。

実はこの前の週に目上の人の家に招待され、その人の友人である方からいただいた最高級の食材を使ってその地方の郷土料理をご馳走になっていたのだ。調理法はおそらく変わらないはずだが何しろ素材が一流。高級というより値段のつけれない代物ばかり。招待してくれた人も「こんなに美味い地鶏はそうそう食えんな」と驚いていたほどである。

「こういう鍋は初めてですか?」

その時の料理の記憶が頭をよぎったがそんなことを言えるはずもない。

「はじめてですね」

優しいウソをついた。仕方なかった。彼は嬉しそうだった。

その後、下戸と素面では大して宴席も盛り上がらずだったのか1時間ほどで店を出た。車に乗り込むと彼は少し物足りなそうにしている。それもそうだ。店ではお通しと煙草とウーロン茶しか口にしていない。

「ラーメンとか食いませんか?」

そう言ってくれたのを幸いに私は勢いよく頷いて車に乗り込んだ。

「隠れ家みたいな店があるんですよ。いかにもって感じの店でね。路地裏の細いとこで深夜しかやってないんです」

「へえ、凄いですね!興味あります!」

ひとしきり盛り上がりを取り戻した我々は件のラーメン屋に急いだ。

車を適当なところに停め、彼の案内に従って歩くと正に言う通りの路地裏を進んでいく。薄暗い路地裏だ。こんなところに本当に店が!?と思わざるを得ない。

「ここです」

彼は赤く染められた古ぼけた暖簾が掛かった入り口の前で止まった。曇りガラスのなんて事はない扉の前。本当に営業してるのか疑わしいくらいだが暖簾が掛かっている以上はやっているのだろう。彼が扉を開ける。

「らっしゃ〜い」

中から気の抜けたような声がする。店の店主と思しき男は、こんな偏屈な場所でやってるくらいだからさぞ変わり者で頑固一徹な雰囲気だろうと勝手に推測していた私を真正面から打ち砕いてきた。小太りで愛想がよく腰が低い。客商売としては好印象だが、職人には到底見えない。

「ラーメン、大盛りで2杯ね」

「あいあーい」

勝手に大盛りを頼まれたことよりも私は店主も気の抜けた返事と店がガラガラである事に不安を抱いていた。そしてその不安をさらに煽ったのは店の厨房付近に置かれたテレビのサイズが以上に大きかったこと。カウンター6席しかない店には不釣り合いなほどデカいテレビではスポーツ番組が流れていて、店主はそれが気になって仕方ない様子だった。

多分、ここはダメだ。そう心の中で確信していたがなるべく表情には出さない様にしていた。

ラーメンを待つ間、私はせめて彼にちゃんとしたお礼を言っておこうとまず頭を下げた。

「色々気を遣ってもらってすんませんでした。良い気分転換になりました。こっち来てから全然上手くいかなくて。正直ずっと帰りたかったんですよね」

「いや、分かってました。だって今回お誘いしたのも上司から言われてなんです」

「え!?」

驚いた。必死に隠してつもりだった上の人間にまで気を遣わせしまうくらい周りに心配をかけていたのかとその時はじめて理解した。

「本当、情けないです。申し訳ありません」

「いえいえ。むしろすごいですよ。東京からこっち来てそこまで頑張ってるんですもん。こっちはホラ、雪深いでしょ?お日様出ないこと多いから、地元の若い奴でもよく鬱になっちゃうんですよ」

「そうなんですね…」

彼はうす汚れたコップの冷や水を傾けながら遠い目をして私に言った。

「でも私らはここが地元だから。ここで生きていかないかんのですよ。だからね、こっちでは貴方みたいな顔をした若い子がいたら先輩連中が声かけて飲みに連れてくんですよ。それがこ

「あいラーメン大盛りふたつお待ちぃ!」

客が我々しかいない店内。せめてもっと空気を読んで欲しかったのは言うまでもない。続きを聞きたかったが麺が延びちゃうし大盛りだからとラーメンに遮られた。

味は悔しいくらい普通だった。

せめてネタになるくらい不味ければと思った。


その後結局最後まで仕事は上手くいかず、多大なる損害を出して私は東京へ帰ることになった。

最後の前の日にお別れにと奢ってもらったなんて事ない焼き肉が一番美味かった。

上手くいかない事があると私はなぜかあの空気の読めない可もなく不可もなしな一杯のラーメンを不思議と思い出す。


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