男は女よりしっかりせねばならない、が女性蔑視を生んでいる
このところ取り沙汰されている女性蔑視問題。
まあ正直なところあきれ返るほどな旧態然だけれど、これでやっとこの問題にしっかりと光が当てられるかと思うと、ほっと胸をなで下ろしたい気持ちになる。
言語化されない闇に光は当たらない。
今までなら躊躇してしまうけれど、世の中の女性蔑視問題に触発されて、今なら書いていいのではないかと思ったので
ーー1972年生まれ、現在48歳、30から社長をしてきた私の感じてきた日本の女性蔑視問題の社会の変化、またその風潮の根源について書いてみたいと思う。
これも一つのムーブメント。
私の中にあるジェンダー意識について
まずは自己紹介方々、自分の育ちに触れておこうと思う。
私の世代にはめずらしくない環境だと思うけれど、父はそれなりの企業に勤めるサラリーマンで、母は大学卒業後すぐに結婚してアルバイトすらほとんど経験のない専業主婦だった。そして妹が1人の2人姉妹、4人家族。
父は妻である母には専業主婦であることを望み、娘2人には「夫の世話になるような女になるな」と勉強も習い事も人に勝つことを望んだ。
「これからは男も女もない。女も社会で活躍する時代だから」そう言われてきたし、日本の教育現場も理想主義的に男女平等には意識が向くのは早かったから、子供の頃は女だからという文脈で頭を押さえつけられることはあまりなかった。まあ、連名で名を連ねるときには男が先だとか、出席番号順はまだ男の子から最初になっている時代ではあったけれど。
だから、一番驚いたのは社会に出たときだった。
派遣社員として配属されたとある企業で、高卒のすごくかわいい女性が化粧をしないでいたら「化粧くらいしろよ」と上司に怒られていた。そのころの高校では、未成年者のたばこなど学生の不良化が一番危惧されていた時代。校則違反の女子高生の化粧は、不良の始まりって怒られていたのに、卒業して社会人になったら一転して求められるものが変わる。
そうか、社会人になるということは、女を意識しなくてはいけないことなのか!と思った鮮烈な記憶がある。
美大に進んだ私はある意味社会とは少し違う価値観の世界にどっぷりつかっていたから、特に顔立ちが整っていないことに引目を感じることもなかった。かわいい子はモテてうらやましかったけれど、私は絵で勝てばいいと思っていたし、頑張ってもいたし、まわりも私の絵を褒めてくれていたので、それなりに自信は持っていたと思う。
けれど、社会に出て「仕事ができる」という判断軸と同じくらい「かわいらしい」という判断軸で認められることが必要なことに気づいた。女である以上見た目や性格がかわいくなければ、例えばクライアントとの打ち合わせにも出してもらえない。デブは言語道断。男性たちが太った女性を裏で笑っているのを聞いて、決して太ってはならない!と決意したし、下ネタに付き合いの悪い女性を「やりにくい」と言うのを聞いて、一生懸命下ネタに付き合う努力もしてきた。セクハラに過剰反応する同僚に「わかるけど気にしすぎ」と言い放ったことすらある。
女性として扱われなかったから成長できた側面
上司に「女を捨てられていない」と言われるのは「やる気がない」と同義語だった。最初その言葉を言われたときには、素直に私もそう思った。女だからできないっていう言い訳は決してしたくないと思ったし、私の中にも多少は女という甘えもあったからそれを打ち砕いてくれた言葉だったとも思う。
けれど同時に「女を捨てるな」ということも求められる。「もうちょっと色気のある格好しろよ」とか「女のくせにガサツすぎる」って言われたことも何度もあって。目指すべき方向がわからなくなってきたころ
そうそう、ある日、こんなことがおきた。
仕事もひと段落して落ち着いた午後、「ちょっときて」倉庫から紙が大量に入った重い荷物を運び出すのに上司に呼び出された。「はい!」と素早く返事をして向かおうとしたら、それを見た同僚(女性らしくかわいい)も手伝おうと立ってくれたのだけれど、「あ、重いから女性は大丈夫だよ」とさも当たり前のように上司は制止するのだ。え?!私は?
この事件は男性の同僚たちに話すと大いに笑いを取れたので、当時の私としてはおいしいネタでしかなかったのだけど、いつしか私は男にとって女は2種類いて、わたしは極力、女と思われない方向で頑張るしかないと思うようになっていった。
この女性だけではなく、何人か男性にかわいがられている女性というのはいた。そのうちの何人かは仕事もバリバリ頑張って、どんどん力をつけると次第に「かわいがられる対象」からは外れていった。
けれどそのうちの何人かは「かわいがられること」にアイデンティティを得て努力を続けるものの、加齢には逆らえず、30を超える頃には主要の現場からは見捨てられるようになった。
それは、恐ろしいことだった。女性の中にもそんな彼女の陰口を言う人が出てきた。そして男性たちからは「チヤホヤされすぎたからねー」と他人事のような言葉がささやかれた。
セクハラもされたし、理不尽な思いもたくさんしたけれど、見た目が芳しくなかった私は女扱いされることがあんまりなくて、女を捨てる努力の甲斐あって男の同僚と同じように扱われたし、それによって経験も得られ実力も伸ばしていくことができた。だからどうしても「かわいさ」「女性らしさ」をよしとする風潮に触れると、女性を潰すことになる!と過剰反応してしまうし、女性の立場から見ると男性のそれはあまりに身勝手に思う。
社会のセクハラ防止の流れが問題を複雑にした
2005年あたりから、企業がセクハラに対して本腰を入れ始めると、社会の空気は変わっていった。
本来正論を言うと、セクハラは、する方のメンタルに着目して防止策を練るべきものだと思う。なぜセクハラをしてしまうのか、その根底に女性蔑視の精神が隠れていないか。女性の心体理解はどのくらいできているのだろうか。
先の例で仕事ができるようになった女性が「かわいがられる対象」から外れていったように、女性に対しても男性と同じように男性が人としての尊厳を尊重できれば、セクハラはきっとなくなっていくのだ。本当はそこに力を入れるべきだったのに、セクハラ防止の流れは、女性蔑視を牽制するものではなく、あくまで犯罪防止に近い文脈で語られることになった。
つまり社会は「女性専用車両」などに見るように「弱い女性を守る」というやり方にシフトしようとした。
セクハラをやめて女性を守りましょう。
女性を刺激する言動を控えて、女性を守りましょう。
根本や真髄の理解なしに「してはいけないこと」をルールにされると、人は心理的圧迫感を覚える。男性は「女性ばかり優遇」と無意識に感じるし、女性の方にも「わたしたちは守られるべきもの」という意識を植え付ける。
男性は身勝手だが、女性も身勝手だ。人間みな身勝手な生き物だから、自分の心地いいものがあればそれにのっかっていくもの。身体機能やフィジカルな差は、同じ性の中でもあることだけれど、女性だからということでいろいろ免除されるような風潮が生まれた。
・女性は力が弱い
・女性は男性より残業が負担になる
ここまでは多少は科学的根拠がありそうだけれど、それが発展して
・女性は大切に扱うべきもの
・女性に汚いことはさせてはならない
になると、もうねじ曲がっている。
男性だって大切に扱うべきだし汚いことは性差関係なく嫌なことのはずだ。
結局セクハラ防止の社会の流れば、女性蔑視に光をあてることなく、単なる事件のような扱いで進んでしまって、それによりより問題は拗れることになった。女性ばっかり守られて、男性だって差別されてる、みたいな言論を生む要素になるような、実に罪深い流れだったと感じる。
そごう・西武の「女性にパイ投げ」広告でおきたこと
覚えている人はどのくらいいいるだろう?こんなふうに話題になった広告。
動画では、生き生きと笑顔の女性がいて、パイを投げつけられても笑っていたように思う。
それをみて、わたしよりひとまわり若い女性たちが「あり得ない」と騒いでいて少しびっくりしたのだ。
「女性の顔にケーキを投げつけるってのが、その画像だけでアウト」
「女性を虐げている」
確かにちょっと女性蔑視への前提の説明不足だったとは思うけれど、男女平等や自分らしく生きることを語るには、女性だって苦労をしたり男性と同じようにできることはしていくのが私にとっては当たり前の思想だ。そりゃ男性にだってパイを投げつけていいわけではないけれど、男性には良くて女性にはダメというのはおかしい。
「わたしたちだって、いろいろできる。汚いことだってやるべきならやる!それがわたし!」
そんなふうに言ってるような広告は、わたしはとても清々しかったんだけれど、どうやら社会の気分はそういうことにならなかったようだ。
本来、女性が社会で活躍すると言うことは、男性と同じように女性だって苦労を自分のために甘んじて引き受けていくということだし、女性だけ守られる立場を主張することこそ、女性蔑視の本質からずれていく。
フェミニストと女性蔑視僕別の文脈は同じにしちゃいけない。
セクハラ問題以前の女性の意識と、それ以降に社会へ出てきた女性の持つ意識が微妙に気付かされた瞬間。
けれど、実はそう言う彼女たちは、旦那が育児を手伝わず、時短勤務を終えて帰ると家のことを一手に引き受けているし、ワンオペ育児をぼやいていつつも、旦那が会社に育休を申請することは、自分の将来にも響くことだから言えないと、そんな環境で暮らしている。
自分が頑張ろうにも、頑張れない状況が否応なしにそこにあるのに、女性に汚いものを押し付けるビジュアルは、さらなる苦労を押し付けられるように感じるのもとてもよくわかる。
男性の持つ、がんじがらめの男の呪縛
私は30歳で会社を立ち上げて、代表としてADとして仕事をしてきたけれど、その中でどうしても乗り越えられない壁というのがひとつあった。
ある一定の、年上男性のプライド。
もちろんごく少数なのだけれど、あからさまに言葉にしてくる人もいる。
飲みの席で「キミみたいな仕事できる女性が奥さんだったらオレ、メンタルずたずたになるよ」と言われたり
嫌味のように「オトコは強い女性には逆らえませんよ」と言われたり。
そして、打ち合わせで女性である私が、プロとして現状の問題点を指摘し改善提案をすると、声を震わせて「出ていけ!」と叫んだ年配男性クライアントもいた。同行した男性社員が同じことを語っても何も言わないのに(決して失礼なことはしていない!参加者確認済み)。
私が話をしていても、常に男性社員の方に目線を向けて答える人もいたな。
最近は私も年をとってそういう扱いを受けることは少なくなったけれど、30代、40代の初めまでは、何度かそういう経験をした。
そして女性たちも。
経営者の立場で言うと、男女関係なく新人採用をしても、女性であるだけで、結婚を機に遠方へ行ってしまったり、子供ができると時短勤務にならざるを得ないのが少しやるせない。もちろんそれは企業努力としてサポートしていくのは当たり前なのだけれど、一方その女性の「旦那さん」の勤める会社が男性の結婚や出産を機にそういう問題に直面するかというと、きっと一切その苦労はないのだ。だから余計とは思いつつも「旦那さんに育休取るように言ってみたら?」って言葉をかけたこともあるけれど、「旦那の会社は無理です」と言われてしまった。
同じ女性として、女性の活躍を応援したいけれど、女性の方にもまた「旦那には稼いできてもらわなくちゃって思うから私が働きをセーブしたい」「女性が育児を担うべき」という想いは強いように思う。
男性自身も大抵の場合一生働いて家族を養うことは視野にいれているからこそ、育休を言い出せないのだろう。けれど男性の会社の上司も、当然のように育休を認めてもらわないと、女性の雇用機会にも影響しかねない。女性社員を抱えることが男性よりもリスクであるような社会になってはいけない。
女性はこうあるべき、男性はこうあるべき、の思想は根深い。
そんな「せねばならないこと」が性別だけで定義されているのは、合う人にはいいだろうけれど、合わない人にとってみたら生きにくい世界であることに違いない。
私に声を震わせて「出ていけ!」と叫んだ男性も、無意識のうちに、男性だということに果てしないプレッシャーを感じていたのだろうし、地球上の半分の生き物よりも、絶対的に上にいなければいけないなんて思うのは、相当にしんどいことと思う。
心から願うこと
仕事とは関係ないけれど、41歳の時に離婚をして、婚活をしてみたら、その市場で自分の価値が低いことに気がついた。社長でそれなりに稼ぎ、特に美人でもなく、家事はちゃんと半々で考えてもらいたい。相手の稼ぎは気にしないが卑屈になる人は勘弁。そんな価値観で挑んだら、割と多くの男性の希望は、「笑顔で明るく家にいてくれて家事が得意な人。稼ぎは特になくてもいい」。
まあたいして本腰入れなかったので、ごく一面しかみていないと思うけれど、それを目の当たりにした時に、そういえば父も、娘には夫に頼らず生きていけるようにと言っていたくせに、本人は一度も働いたことのない専業主婦の母を選んだんだったと、今更ながらに気づいた。
女性蔑視の記事のヤフコメとかTwitterの発言をみていると、なんでこれが女性蔑視なの?騒ぎすぎじゃない?なんて言葉がちらほら見受けられる。
この問題は家庭環境から始まって、物心つく前から無意識に刷り込まれた感覚に寄与する部分も多くて実にややこしいですね。
でも、時に女性であることを捨てたり、時に女性を利用したりしないと正当な評価が与えられない環境があることは、理解して欲しいと思う。無駄に話が長くなることを、女性だからという理由にされたらたまらない。
社会に出ていこうとした時に女性というだけでしなくてはいけない苦労を、取り外して欲しいという願い。どうぞやる気のある女性には、男性と同じくらいの責任を課してください。女性も甘えない社会になってください。その上で、男性だからという押し付けも無くなればいいと本当に思う。
家庭でも、男女性差なく得意なことを得意なほうがやればいいし、女性だって稼げない男に専業主夫として家で頑張ってもらう選択肢や、男だってそれを女性に提案できるようになればいいのに。
男女関係なく得意不得意はあって、強みも弱みもひとそれぞれ。
女性だからと定義されることなく、わたしがわたしとして見てもらえる世の中を勝ち取りたいと、きっと多くの女性が思っている。そして男性も、男性だからと定義されることなく、自分の生きたいように生きる世の中を心待ちにしているのではないかと、思うのだけれど。
女たちよ、力をつけろ。
そして、男の自由を認めよう。
男たちよ、呪縛を解き放て。
そして、女にも権力を与えよう。
息子が社会に出るころには、
性差フラットな日本社会ができあがりますように。
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