◎祭りで狐と踊った話
「あれは高等小学校に上がった最初の夏じゃった」
ほとんど寝たきりの祖母が、床に横になったまま語り始めた。若いころは地方の新聞社に勤めていて、終戦の日の新聞社の混乱など事細かく話をしてくれたものだが、最近はもっぱら子供時分の思い出話が多い。先日も夏祭りの帰りに怖い目に遭ったという話をして、そこから妙な具合になってぼくの婚約話が壊れるという騒動があったばかりだ。
「世界恐慌の最中だったはずじゃが、わしら子供には知らんこっちゃ。いつものように盆踊りがあって、須磨ちゃんと明るいうちから出かけて行った」
須磨ちゃんというのは祖母の幼友達で、女学校までずっと一緒だった人だ。不思議な妖気を漂わせた人で、祖母の奇怪な出来事にもよく出てくる。この人の話はまたどこかですることになると思う。
「遊びまわってやがて暗くなる。櫓から吊るしたちょうちんの光も怪しく、太鼓や笛の音に人を酔わす音頭取の声、わしも輪の中で夢中に踊りに興じておった」
遠い日の記憶がまざまざと蘇っているのだろう、その喧噪が耳に今も聞こえているかのように目をつぶったまましばらく言葉を切った。ぼくはただ黙って話の続きを待った。祖母は目を開けて、ぼくがいるのに初めて気づいたかのように、ぼくの目をじっと見詰めて語を次いだ。
「汗だくになってそのうちふと気づいた。唄が何度も同じところを繰り返していつまでも終わらないんじゃ。おかしいなと思いながら周りを見ると、手を挙げて踊っているのが皆な何といつの間にか白塗りの狐の面を被ってるじゃないか。それも揃いの浴衣だ。それがグルッと隙間なく幾重にも櫓を取り巻いている。わしは一番内側を踊っておって外に出ることもならん。後ろから押されるようにしてただ呆然としばらくは輪について踊っておったが、とうとう足がもつれて櫓の下に倒れこんだ。そのときわしは見たんじゃ、地面に着いたわしの手が茶色い毛の生えた狐の手になっているのを。驚いて見上げた櫓の上の男たちはお面ではなく真っ赤な目をした本物の狐の顔ではないか。ちょうちんの明かりは宙に浮いた青緑した狐火じゃ。ゾッと体が凍り付き、同時に股の間を暖かいもんが流れた」
祖母の真剣な顔付きが正に凍り付いたかのようだ。吸い込まれるかのようにぼくはその顔をただじっと見詰め返していた。
「血だ! 血の匂いだ! という叫び声がしてな、コーンと狐の一鳴き、同時にそれこそ白い煙がそれぞれの男たちのいたところにボンと上がって、皆消えた。次には須磨ちゃんが『大丈夫?』ってわしのことを覗きこんでいてくれた」
作り話のはずはなかろうとぼくは考えていた。まさか自分が漏らしちゃったなんて話は作るまい。
「この狐の盆踊り、須磨ちゃん以外は誰にもしとらん」
祖母は上を向いて再び目を閉じた。
話は終わりか。それにしても血って何だったんだろう?
「それが……わしの初潮じゃった」
ぼくがその言葉の意味を飲み込むまで間があいて、祖母は布団の中でちょっぴりはにかんでいた。ようやく意味が分かったとき、皺いっぱいの小さな顔に少女の面影がよみがえっていた。祖母が大切にしまってきた幼き日の鮮烈な追憶。続く様々の思い出が鮮やかに巡っていたのだろう。娘時代に戻って穏やかに微笑む少女の彼女がとても可愛らしく見えた。
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