睨み合いの日々
人は不思議な動物。実際には起こっていないことを、はたかも起こったかのようにして感じてしまう。私だってそんなことあります。
今回はそのようなことの一部として、「睨み合い」ということについてnoteに書きたいと思います。
毎日が睨み合いの戦場
毎日どの場所でも睨み合いという競技が行われています。例えば、私の大好きな都営バスで移動する時、別に何もしていないのに、乗っている人に急に睨まれたりと、なんか訳分からないことが起こります。何に対して睨んでいるのでしょうか。
自分はあまり乗らないのですが、電車においても、乗車する時に、訳もわからず睨んでくる人がいます。何を不満に持っているのでしょうか。とても気になって仕方がないです。これは別に私が不満に思っているというよりかは、興味本位ということでもあります。
睨むことの伝染
睨むとき、これが稀に伝染することがあると思います。ある人を睨むような目つきで見てしまうと、それを見られて睨み返してしまう。そしてその近くに座っていた人が睨まれたかのようにして錯覚し、つい睨み返してしまう。
初めは別にそんなつもりはなかったのにそのように勝手に伝わってしまう。不思議な現象です。
なんで睨むの?
まあここで考えることとしては、「なぜ睨んでしまうのか」ということです。
例えば、自分の周りにいる人が迷惑のかかる行為をしている時などでしょうか。具体的には、電車の中で大声で会話している奴らとかですね。
あと、東京の電車ではよくあるのですが、席を何個も占領して横に寝ている人とかよくいますね(笑)。それも睨みの対象になってしまいそうですね。
これらに関しては明確な要因があるのですが、ほとんどの場合が無意識、何もないのに睨んでしまうということではないでしょうか。ポケモンが混乱して訳もわからず自分を攻撃するかのように、何か無意識に近いような感じでしてしまっているのではないでしょうか。
場所によって睨んでしまう率が変わってしまう
これに関しては、まさしくそうであると思います。それこそ、東京の満員電車では多いのではないでしょうか。満員電車、それは東京で働くサラリーマンや学生にとっては一種の小規模の戦場です。
カーブという修羅場にかかると、人はそのカーブとは反対の向きに傾いて人を押し合う、そこはまさにストレスの溜まるゾーンです。
このような形で、必然的にストレスが高まってしまう環境が多いからこそ、睨み付けるという行為は自然発生してしまうと考えています。
ストレスフリーな社会はやってくるのか
これに関しては、今では働き方改革や、今流行のコロナウイルスの影響によって、「原則出勤停止」ということによって、外の人混みに出るということが少なくなってきているのではないでしょうか。
それによって別のストレスが生まれるかもしれないですが、少なくとも圧迫感のような身体的にも精神的にもくるストレスというものは改善されたのではないかと感じています。
ですが、ストレスフリーな社会はおそらく今後やっては来ないだろうと感じています。
それは人それぞれの考え方によるのですが、やはり世界はトレードオフでできていると思っていて、ストレスの中にも、様々な種類のストレスがあり、それらはお互いトレードオフの関係で存在しています。だから世界って存在するんだなと日々感じています。
ですので、ストレスフリーというよりかは、なるべくストレスを減らしていくということの方が正しいかもしれないですね。もしくはそのストレスフルな環境を承諾するということでしょうか。それでは元も子もないでしょうかね(笑)。
ストレスの感じやすい場所では、一度無心になってみる
私は、満員電車のようなものに滅多に出会わないですが、もしあった時には一旦無心になるチャレンジをしています。つまり、スマホなどを見ずに、なんか置物になったかのようにして無心になってみるのです。もちろん、人にも目を合わせずに。
それによって、例えば急なカーブで押されたとしても、作業の邪魔をされたなどのことを感じなくなるので、比較的ストレスレスになると思います。
終わりに
今回はこんな感じです。働き方改革などがありますが、世の中がもう少しストレスレスになるように、これらのような改革を改善していくべきであると感じます。