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22.あかねの「没入型」演技と、かなの「適応型」演技(後編)
では、前回「21.あかねの「没入型」演技と、かなの「適応型」演技①」でのあかねの話に続き、今回は「適応型」演技についてお話したいと思います。
適応型は「俯瞰的な視野の広さ」?
有馬かなの「適応型」演技というのは、黒川あかねのような緻密な分析まではせずに、そのキャラクターの特徴をつかみ、作品全体やそのシーン全体を見渡したとき(俯瞰した時)に、自分はどのように演技するのが収まりよくなるかということを計算して行う演技のことを指し示しているのでしょう。
「今日あま」の時もそうでした。周りとのバランスを考えて、わざわざ下手な演技をしていたと、かな自身も言っています。
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役者全員がハイレベルであれば申し分ないのですが、実際の現場でもそううまくはいかないでしょう。演技のうまい下手はどうしても出てきます。その中でみんなが自己主張を激しくしすぎると、作品自体が破綻してしまい兼ねません。そのために、有馬かなが「適応型」になったことは、この芸能界(せかい)で生き残るための戦略の一つだったのでしょう。
それが裏目に出て、「使い勝手ラク(推しの子16話。鏑木ディレクター談)」な役者とされてしまいましたが。ここから有馬かなの快進撃が始まります。
「没入型」と「適応型」という分類について
心理学では、◯◯型というふうに人の性格を分類することを「類型論」と呼びます。たとえば、A型、B型、O型、AB型という血液型(ABO型)によって性格が異なると考える*のは「類型論」の立場です。それに対し、人の性格を複数の特性(◯◯性が高い・低い)の強弱からなっていると考えるのを「特性論」と呼びます。
ここで「没入型」と「適応型」という2つの「型」が用いられていることは、類型論の立場で考えているといえますが、本当にこの「演技」のタイプをたった2つの型に分けることができるか?ということは頭の片隅に置いておくといいかもしれません。とはいえ、このように型(タイプ)に分けることは、物事を理解するために思考を整理しやすいので有効ともいえます。
ここ数年流行っている「16Personalities**」というウェブ上にある心理テストも同じく類型論といえるでしょう。この「16Personalities**」については注意がありますが、以下をご確認ください。
*ちなみに、血液型によって性格が異なるとされる言説については、数多くの研究者が幾度となく研究を行ってきましたが、いずれの研究においても「血液型による性格の違いはみられない」という結果に終わっています。
**16Personalitiesというのは、統計学的な信頼性や妥当性に基づくものではなく、科学的根拠が十分に実証されないまま、世界に広がってしまったものです。MBTI診断と呼ばれることもあるものの本来のMBTI®とは異なるものなので注意が必要です。出力された結果を鵜呑みにしないようにしましょう。
MBTI®(Myers-Briggs Type Indicator)は、もともとユングの許可を得て、マイヤーズとブリッグスによって作られた自分の心を理解するための一助とする性格検査です。
解釈違いと対話
「解釈違い」という言葉がありますが、いずれも「(その作品の、あるいはキャラクターの)解釈」という点次第で、どのように演じられるかが変わってきます。一つの作品の中で解釈違いが生じると、それが不協和音となり、その作品全体の質が下がってしまうでしょう。
とはいえ、「解釈違い」が完全に悪いわけではありません。解釈が完全に一致しているということを確かめる術はありませんし、その解釈違いが作品を昇華させることもあるかもしれません。あくまで門外漢の立場からなので大きなことは言えませんが、「解釈違い」が役者と役者の間、あるいは原作者と脚本家の間で生じた場合には、そこには「お互いが異なる人間だ」という前提に立った対話が重要です。
この世には一人として同じ人間はいません。一卵性双生児であったとしても、100%同じということは遺伝的にも環境的にもありえません。それを認めた上で、互いの性格や視点、感情、言葉に言い表せられない感覚などを、対話を行う中で少しずつ知っていくことで、その作品としてどういう形が最もいいのか、少し時間がかかっても対話を継続することが大事ではないでしょうか。
理解の途上にとどまる
そもそも完全な答えはないかもしれません。というか、ないのでしょう。
あくまで作品はアート(芸術)であり、作品やキャラクター解釈だけでなく、そのアートをどのように表現するかについては、各人によって当然異なります。
その「違い」を調和させて作品にしていくのか(シンフォニー)、あるいは、その「違い」をそのままにして、新たなものが生まれてくるのを見届けるのか(ポリフォニー)はどちらもアリだと思われます。
コラボレイティヴアプローチのアンダーソンら(1992)は「常に理解の途上にとどまる(Anderson & Goolishian 1992[野口・野村訳])」という言葉を用いました。私たちは一人ひとり違う人間だからこそ、言葉を用いて対話を行い、その違う「考え方」「用いる言語」「歩んできた歴史」「あるもの(ここでは作品やキャラクター)への捉え方」を対話の中で知るのです。
無理に相手の考えに合わせる必要も、相手に自分の考えに合わせさせる必要もなく、穏やかな対話の中で(時には激しい対話かもしれませんが)、互いの違いを認めたうえでの作品への落とし込みがなされるのでしょう。
有馬かなより視野の広い人物はアクア?
原作42話では、「劇団ララライ」代表、金田一敏郎が「アクアくんも舞台は初めてって聞いたけど、周りが見えててソツがない」と言っています。こういった劇という場においては、アクアは視野を広くとれるタイプであるかもしれません。
ですが、一方で【推しの子】作中では、視野狭窄に陥ってしまっているアクアの場面がよく描かれています。アクアはある一定の場所・場面において俯瞰して物事を見られるものの、自分や推しが絡むことになってくると、視野が狭くなってしまうクセがあるのかもしれませんね。
これは、雨宮吾郎だった時に、アイに対して妄信的な様子だったのがそのまま転生後も引き継がれているということなのでしょう。
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